『マキちゃんのえにっき』 いせひでこ

新編 マキちゃんのえにっき

新編 マキちゃんのえにっき


ロッタちゃん、Oちゃん、スーちゃん、ラモーナ、それから、それから・・・
元気な小さい子を主人公にしたお話は、かわいくて、楽しい。でも、この本『マキちゃんのえにっき』は、ちょっと違う。
この本、幼年童話のようにみえる。主人公はマキちゃんのように見える。
でも・・・
子どもをめぐる日々は、ぽかぽかの日だまりばかりではない。
もしかしたら、これは、マキちゃんを通しておかあさん自身の気持ちを書いた本ではないか。そのときのありのままを描いた「マキちゃんのおかあさんのにっき」じゃないか。


自分の存在のすべてをかけて守り、取り組まずにいられないもの、決して手放すことのできないもの(それも相反するようなもの)を二つ以上抱えて、立ち止まることもできず、でも流されることも拒んでいる人の日記。
感じるのは、おかあさんの孤立感、閉塞感だ。


二歳のマキちゃんは、
「おなかのいちばんでっぱったところよりすこし上のあたりに、ときどき、そうっそうっと風がふいているような気がすることがあります」
という。でも、その風が吹いていたのは、きっとおかあさんの胸の中。
また、さんざん泣いたマキちゃんが、お日さまのあたる段々で、自転車の音を聞きながら、
「マキ、おかあさんに、ごめんなさいって、ちゃんといおう」
と考えている。でも、ごめんなさいって言おうと思っているのは、きっと自転車をこいでいるおかあさん自身なのだ。
それから、小さいマキちゃんがおとうさんにうまく甘えられない理由も、それは、ほんとうはおかあさん自身の気持ちではないか、と思う。
木々に囲まれた吉祥寺のおうちから代々木のマンションに引っ越してしばらくしたころ、マキちゃんは
「吉祥寺に、ばらのある風景といっしょに、まほうもわすれてきたようだ」と気がつく。
これも、マキちゃんの言葉で語られるけれど、おかあさん自身が気がついたことだったのだろう。


夜中に、誰だかわからない人にあてた手紙を書いているおかあさん。
羽根のついた女の人の絵をかいているおかあさん。
たばこを吸いながら窓の外をじっと見ているおかあさん。
そういうお母さんの姿が、マキちゃんの、ちょっと大人びたまなざしと重なる。


いつも、マキちゃんの目の前には、忙しそうな背中がある。
おかあさんが振り向いて優しい声を出すときは、マキちゃんに(ぐずらないで)早く寝てほしいと願っているときだ。
でも、マキちゃんは知っているよ。
学校から、子どもが熱を出したと連絡がくれば、自分も高熱で寝込んでいたにもかかわらず、「黄色い顔して自転車にとびのると、どこにあんな元気がのこっていたんだろうと思うほどすごいいきおいで、学校にはしって」いく、そういうおかあさんであること。
この本の、たくさんの、いろいろな姿のマキちゃんの挿画は、愛おしさにあふれている。この絵を描いたのはおかあさんだ。
子どもをめぐる日々は、ぽかぽかの日だまりばかりではないけれど、もちろん、もちろん、ぽかぽかの時間はある。その時間が、きっと子どものなかにも(親のなかにも)いつのまにか大きく根を張ってくれる。あるいはみえない傘になってくれる。


一切おかあさん自身の思いは書かれていない。ただ、あどけないマキちゃんの言葉や仕草の間から、たくさんのおかあさんの横顔が垣間見える。
マキちゃんからおかあさんをみる、それから、再びおかあさんからマキちゃんをみる。
器用とは言えない親と、子とが、夢中で乗り切ってきた日々がある。
文も絵も、時々どきっとして、時々やりきれなくて・・・


やっぱり、
やっぱり愛おしい。
小さかったマキちゃんが、ぐんぐん、ぐんぐん大きくなって、この本の後書きに変わる「てがみ」なんて書いているからだ。