『ウールフ、黒い湖』 ヘラ・S・ハーセ

ウールフ、黒い湖

ウールフ、黒い湖


「ウールフは、ぼくの友だちだった」という言葉から物語は始まる。そして、幼いころや少年時代の回想が始まる。抒情的な美しい文章に、ほうっとため息をつく・・・


オランダの植民地だったジャワの大農園で、オランダ人農園主の一人息子として生まれた「ぼく」と、農園の苦力頭の長男として生まれた同い年のウールフは、一緒に育ったのだ。
「ぼく」は語る。
どんなにウールフが自分にとってかけがえのない存在であるか。兄弟よりももっと近い存在であるか。身分の違いなど、考えたこともなかった。二人の間にはそんなものはないはずだった。
でも、本当にそうだったのだろうか。
物語は「ぼく」の語りで進む。ウールフが、そのときどきに何を考えていたのかはわからない。
「ぼく」のウールフへの思いが深ければ深いほど、回想の場面場面があまりに美しいことにも、違和感のようなものがじわじわとわきあがってくる。ウールフは果たして「ぼく」と同じ思いでいただろうか。
読み始めた時は、文章の美しさに、ただ、酔うような気持ちだった。それが、だんだん苛立ちに変わっていく。


黒い湖は、タラガ・ヒドゥンという名前の湖で、原生林の奥深くにあった。
村(デサ)の子どもたちのあいだでは、邪悪な霊や死霊たちが集う場所だ、と語り継がれていた。老婆にばけた吸血鬼が、死んだ子どもを待ち受けている。
けれども、農場にディナーにやってくるオランダ人たちは、食後の水遊びやひと泳ぎ、ちょっとした悪ふざけの場所と思っているようだ。
村(デサ)の大人たち(たとえばウールフの父、苦力頭)は知っている。この静かな湖が怖いのは、底に茂る水草であることを。水草が人を捕らえ、絡め、溺れさせてしまうことを。
静かに冷たく澄んだ湖・・・
湖を覗くことは、誰かの瞳の中を覗くようだ。そこに見えるものは、見ようとする人によって違うのだろう。


訳者あとがき(60ぺージもある! 素晴らしい読み応え)によれば、作者ハーセもまた、物語の語り手「ぼく」と同じように、インドネシアで生まれ、成長したオランダ人だった。
後年、インタビューに答える作者の言葉が引用されている。少し長いけれど、書き写します。

「この小説は当時起きた(オランダでは〈警察行動〉と呼ばれる)出来事、それを機にとめどなく溢れ出した感情から生まれた物語である。自分が生まれた国は、実は自分の属する場所ではないという自覚。インドネシアの人々の独立への願いはもっともなこととして理解でき、自分の心もその現地の人々とともにあった。しかし、それはとりもなおさず、自分の生まれ故郷を失うということを意味しているのであり、そこで生まれた自分はオランダ人でありながら、この先オランダに住み続けたとしても内面まですっかりオランダ人になることはけっしてあるまいという予感も抱いていた。同時に、少女時代を過ごした東インドを自分はいったいどれだけ知っていたのだろうという思いもあった」
「ぼく」と作者の思いが、ここにきて重なる。作者の東インドが、ウールフという青年の姿に重なる。
作者の思いを鏡にして、わかるべき事柄をわからないまま成長させられ、わからないまま愛し奪われた「ぼく」を、痛ましく思う。
オランダによる植民地支配のもと、意図的に無知のまま置き去りにされた村(デサ)の人々。
でも、現地に住むオランダ人たちも、形を変えて無知のままでいさせられたのかもしれない。こちらのほうは、口の中に甘いお菓子を詰め込まれて、満腹のまま留め置かれたようなイメージがある。


そうして、また、最初のページに戻る。
「ウールフは、ぼくの友だちだった」
続く文章を読みながら、美しい描写のひとつひとつを、やはり美しい、と思う。美しくて・・・そこにいる人間たちそれぞれにとって、それぞれ違った形で、とても残酷だ、と思う。