『戦争と児童文学1 小さきものへのまなざし、小さきものからのまなざし』 繁内理恵 (『みすず』2018.4月号より)


『みすず』2018.4月号から、繁内理恵さんの連載『戦争と児童文学』が始まった。
その第一回は、『小さきものへのまなざし、小さきものからのまなざし』と題して、朽木祥作品についての評論である。
副題は、『朽木祥 越えてゆく小さな記憶』


まず、いつも思うことだけれど、繁内理恵さんの評論を読むと、その参考文献の膨大さに目を見張る。
ひとつの作品、一人の作家について語るために、こんなにもたくさんの書物をあたるのかと、驚いてしまう。
読んでいるわたしには、挙げられる書名がいちいち興味深く、ありがたい読書案内にもなっている。


朽木祥さんのヒロシマの物語を繁内理恵さんの案内で辿っていくと、今まで気づくことができなかったことに気がついて、「あ!」と思う。
たとえば、『彼岸花はきつねのかんざし』について。「原爆」を落とされたのは、いったい「どこ」(地理的な話ではなくて)なのかを思い知らされる。受け取った物語が、その読者にとって、どうしようもなく大切なものになるのはそういうことだったのか、と腑に落ちる。
それは、『八月の光』の七編の短編のうち、『雛の顔』について語るくだりにある「絶望的な孤独」という、とても印象的な言葉にもつながるように思う。
この「孤独」は、目に見える形を持たないけれど(持たないから)、起こったできごとによって、その存在を示してしまったのだな、と。


また、『八月の光』の『水の緘黙』について。
この物語は七つの物語のなかで唯一、不思議な味わいがあり、印象的だった。でもそれがどうしてなのか、わからなかった。謎めいた物語だった『水の緘黙』の意味を、繁内理恵さんは鋭く解いていく。もやもやしていた霧が少しずつ晴れていく。そのひとことひとことに「あ、あ、あ・・・そうだったのか」と思う。


そして、朽木祥さんのヒロシマは、戦後へ。『光のうつしえ』『海へむかう足あと』
エヴァ・ホフマンの著書『記憶を和解のために――第二世代に託されたホロコーストの遺産』から引いた「蝶つがい」という言葉(なんという重たい言葉だろう)で、「過去の記憶を受け継ぎ、未来へ繋げていく」ことを語る。この「蝶つがい」という言葉からみて、「繋げる」ということは、ほんとうはどんなに厳しい言葉であっただろう。


繁内理恵さんの評論を読むことは、特別な冒険物語を一冊、堪能しきったような満足感がある。
取り上げられた作品がますます自分にとっての大切な本になる、そういう冒険だ。
取り上げられた作品一作一作と、読者とを、さらなる対話に向かわせてくれる。
これから隔月で、繁内さんの評論を読むことができるのか、と思うとわくわくしてきます。
まずは、今回、取り上げられた朽木祥作品を全部あじわいなおしたい。