『とうに夜半を過ぎて』 レイ・ブラッドベリ

とうに夜半を過ぎて (河出文庫)

とうに夜半を過ぎて (河出文庫)


儚く消えていきそうな美しいもの(もしかしたらすでに残像)に触れられるような気がして、ときにはブラッドベリを読みたくなる。
けれども、同時に差し出される恐ろしいものやグロテスクなものが苦手なので、ブラッドベリは油断できない、とも思っている。
訳者による解説では、「もしも、ブラッドベリとは何者かと問われるならば、恐怖小説家と訳者は端的に答えたい」と書かれている。わあ……


この短編集はよかった。覚悟していたけれど、そこまで恐ろしいものもグロテスクなものも現れなかったと思う。
ぞっとするものはあるけれど、それは、美しいものや懐かしいものに伴う翳のようなものと思えた。
このくらいの配合(?)が私にはちょうど良い。


・・・いいえ、ちょっと待って。
そう言いきる前に、「恐怖小説家」の名に敬意を表して、もっとも恐ろしかった作品のことをちょっと。
『日照りのなかの幕間』が不気味だった。
そこには魔法も特別の仕掛けもない。
あるのは、一発ぶんなぐって思い知らせてやりたいような夫との延々と続く(妻にとっての)結婚生活なのだ。
いつだって簡単にさっさと解消できそうな結婚生活を、心すり減らしながら、なぜ続けていくのか。と、苛立ちながら何度も繰り返す「なぜ」・・・だんだん寒々としてくる。
そう、ここには、魔法も特別の仕掛けもない・・・


気持ちを取り直して、この本全体のイメージをことばにしてみる。
子どもの足音が聞こえる。『たんぽぽのお酒』(大好き)のダグの足音が戻ってくるような気がする。
実際、子どもであり、大人であり、時には老人である人たちは、その胸のうちに、一人の子どもを宿しているのではないか。
その子どもは、ある夏の日、おろしたてのテニスシューズをはいた足で、草を蹴って駆け出す。
私は、物語を読みながら、足音を聞いているのだ。
ときどき、立ち止まり、何かを探してしゃがみ込む。それから急に走り出す。跳躍する。ぽーんと草を蹴って、空にとび、パチンと音をたてて消えてしまう。
静けさだけが残る。
読み終えてみれば、子どもなんて最初からそこにはいなかったのかもしれない、と思う。足音なんて聞こえなかったのだ、と思う。
でも、遠くの方から微かに草刈機械のぶーんという音が聞こえてこないだろうか。刈りたての草の甘い匂いがするではないか。そうしたら、それだけで満ち足りた気持ちになるではないか、他に確かなものは何もなくても。それでいいんだ、それがいいんだ、と思う。