『朝の少女』 マイケル・ドリス

朝の少女 (新潮文庫)

朝の少女 (新潮文庫)


☆この文章は、後半、物語の結末に触れています。
その部分には「☆以下、結末に触れます!☆」と記しましたので、これから読むかたは、どうぞご注意ください。


先日読んだ『テディが宝石を見つけるまで』のなかで、詩人が愛犬に読み聞かせていた本のリストのなかにあった書名のひとつが『朝の少女』だった。


朝が好きだから「朝の少女」と呼ばれる少女と、夜を愛するから「星の子」と呼ばれる弟がいる。
朝の少女は言う。
「あたしは朝早くに起きて、一人ぼっちでいるのが好き」
星の子は言う。
「じっと闇を見ていると、それまで見えなかったものが見えてくるんだ」
いってくるほどに性格の違うこの姉弟、共通するのは、なにかが起こったとき、彼らが助力を乞うのは、自然である、ということ。
たとえば、朝の少女は、鳥や花や水、空や風と話す。
星の子は、自ら岩となり、木の一部となる。
誰かに教えられたわけではない。
そうすることは、きっと生まれた時から当たり前のことだったのだ。自然は、彼ら家族の大きな家のようで、親のようでもある。


少女も少年も、じきに子ども時代と別れを告げる。そんな微妙な年ごろなのだ。
朝の少女は、自分の顔がどんなふうだか知りたい、と思う。
星の子は、家を出て、自然とともに暮らしたいと願う。
ふたりとも大胆にみえるけれど、ほんとうはきわめて繊細だ。その繊細さが、自然との関わりの中で、鞣されていくように感じる。
両親は、子どもたちが外に出ていくことを引き留めない。彼らが手許に戻ってきた時には喜んで迎え、彼らの疑問には静かな叡知をもって答え、多くは黙って見守り続ける。
一家はおおらかな愛情で結ばれている。
おおらかであることは、繊細で美しい。
訳者あとがきには、こう書かれる。
「なにひとつ猥雑感のない純化されたものを、わたしたちはたやすく美しい、というが、ほんとうに美しいものは、その上、自然の中にあって、生命そのものがひかり輝くことだろう。」



☆以下、結末に触れます!☆



だから・・・
最後の2ページに、はっとする。
少し前に読んだ『ほら、死びとが、死びとが踊る』を思い出す。似ている? いいや、ちょっと違う、と思う。
『ほら、死びとが…』では、読者である私はどちらかといえば強者の側にいて、そこで感じていたのは、恥ずかしさと悔しさだった。
でも、こちらの『朝の少女』は、逆なのだ。
人種や種族をあらわす言葉は書かれていなかったし(すぐにわかるとしても)、彼らの暮らす島の名前も場所も書かれていなかったから。
だからわたしは、朝の少女も星の子も、自分のなかにいるもう一人の自分、と思って読んだ。
実際、彼らのように豊かな自然を友として何も持たずに暮らせるわけがないのだけれど。でも、子どもから大人に変わりつつある子どもたちの戸惑いも、願いも、痛みも、家族への思いも、微妙なところでとっているバランスも、知らないわけではなかったから。
いつの世でも、どこの場所でも、変わらないものの、余分なものをざっくり削ぎ落とすと、こんなに美しく、輝かしいものがあらわれるのかと、物語の世界に魅了された。
幸せな読書だったはずなのだ……
それなのに。
最後の2ページ。思いがけず出会ってしまった言葉は、背中につきつけられた刃物のようだ。
そして、この刃物も、恐ろしいことに他人事ではないように思える。この刃物も、いつの世でも、どこの場所でも、変わらないものなのでは、と思うと・・・