『波紋』 ルイーゼ・リンザー

波紋 (岩波少年文庫 (512))

波紋 (岩波少年文庫 (512))


少女は、小さな町で厳格な両親に育てられた。五歳の時、父が戦争に駆り出された。そこで、大伯父が司祭を勤めるザンクトゲオルクの僧院に、母とともに身を寄せ、約五年間をそこで過ごした。
物語は、少女が僧院に到着するところから始まるのだが、この僧院の整った美しさ、静けさ、そして、僧院を囲む果樹園や菜園、さらにその先に遥かに続く草原や森の姿に、たちまち魅了される。
大伯父や家事を一手に担う叔母の、豊かで温かい人がらも、出会う人々のおおらかさも、友人たち(たとえ通りすがりであったとしても)も、彼女の幼い日に深い印象を与えた。


信仰篤く厳格な両親に育てられたことも、僧院にあり、祈りと、静かな霊との対話のような暮らしが当たり前のようにそこにあったこと、そして大人の中で過ごすことが多い事も、影響しているのかもしれないが、彼女は内省的である。とても大人びている。落ち着いて見える。自分と同い年の子どもとは話が合わないことを自分でも知っている。高いところに据えた目線は、高慢というには、純粋過ぎる感じだ。
けれども、その一方で、うちにはものすごく激しく、抑えがたい熱情のようなものを秘めている。それは、抑えようとすればするほど膨れ上がり、その機があれば爆発するようにあふれ出し、激しい行動へと駆り立てるのだ。


少女が自分をストイックに抑えようとする自制の姿も、まるでその反動のように、ときどき表に表れる激しい嵐も、どちらも鋭い刃物のようであるが、僧院での暮らしは、そうした少女を柔らかくくるみ、少女が自分の感情に静かに向かい合い、名を与えることができる余裕を与えてくれていたのではないか。


この僧院を離れてから、思春期、青春期の彼女は苦しむ。
厳格な両親、教師、学校の規則、何もかもが、まるで、彼女を閉じ込める冷たい檻のように思えた。
ことに、より一層感じやすい心を持つ彼女であれば。
彼女自身が、激しい嵐のようだ。
嵐は彼女の中から表れ、彼女自身に向かって吹き、彼女自身を散り散りにしようとする。
(今となってはユートピアのように思う)ザンクトゲオルクはあまりに遠かった。遠すぎて見えなかった。
短い間、彼女の傍らにいてくれた祖父も亡くなってしまった。
(異端の人であったこの祖父は、目に見えない奥深いところで、ザンクトゲオルクの日々に通じるような豊かさをたたえていた。忘れがたい人だ)
忘れられない出会いもあり、美しい思い出もあった。でもそれを握りつぶさないようにそっと手のひらに乗せておくには、彼女はあまりに激しすぎたかもしれなかった。


少女が育ったザンクトゲオルクの僧院には「聖なる泉」があった。
子どもの頃の彼女は、水盤の澄んだ水に小石を投げ、鏡のような水面に、波紋が見事な模様を作るのを飽かず見ていた。
しかし、何度もやっているうちに、この模様は水の表面だけをすべり、水盤の水全体は何も感じていないのだ、ということに、気がつくのだ。
「表面の遊びだけをわたしに許しておいて、自分は動かされず、侵されず、わたしの力から距離をおいて身を守っている」
物語のタイトル『波紋』は、彼女のこの遊びによるものだ。
この波紋の水盤が、物語のおしまいにもう一度あらわれたとき「ああ」と思った。
少女時代に彼女を育んでいた美しいものも静けさも、彼女をそのままよしと見守るものたちも、姿は見えなくても、いつでも、動かずに、変わらずにそこにある。
激しい嵐は、表面を吹くだけで、底の水を動かすことはない。
泉の水は、彼女自身だった。



訳者・上田真而子さんの「あとがき」で、少女(たとえ、作者自身の本当の体験ではないとしても)のその後の人生に待ち受けているものを読みながら、あの聖なる泉の水盤、波紋の下の澄んだ水の姿を思い浮かべていました。