『ほら、死びとが、死びとが踊る』 キム・スコット


「英国人の入植地がオーストラリア各地に広がりつつあった十九世紀前半、本作の舞台となったオーストラリア南西部には、一時的にではあるが、白人とアボリジニがうまく共生できた時代があったという。「友好的なフロンティア」と呼ばれ言い伝えられてきた」(訳者あとがきより)


友好的なフロンティアの時代に、ヌンガル(アボリジニの種族)の少年ボビーは、ヌンガルのブラザーと英国人入植者たちの間を行き来しながら成長する。
彼は、ヌンガルと入植者人たちとのかすがいのような存在だった。
この少年の屈託のない笑顔がいいのだ。


物語は叙事詩のようで、神話のようでもある。
年代ごとに(ヌンガルと英国人との関係の変化、あるいはボビーの成長に合わせて)四つの章に分けられているが、そこに描かれたものは、盛りだくさん。語られる物事は、海に点々と浮かぶ島々のような具合に、大抵は前置きも何もなくぶつ切りのように置かれている。それらが集まって大きな物語を作っているような印象だ。時にとまどうほど、とりとめなく感じられる。(それだから神話っぽいと思うのかも)
多くの人々が、群像となって現れる。さまざまな経歴、さまざまな思惑、野心を持って、ともに黙ってここに集う。(いましばらくの間は、黙って。)
オーストラリアの海岸で、鯨がやってくる海を見はるかしながら語られる情景は、雄大で美しい。
ヌンガルも英国人も鯨を待っているのだ。
協力しあって鯨をしとめる描写は、眩しいような熱気と活力で、どきどきする。
詩みたい。ああ、やっぱりこれは詩だな。


しかし、「友好的なフロンティア」は、ほんとうに「友好的」だっただろうか。一番良い時代であっても、両者は対等であっただろうか。
「彼らを文明化する」という言葉は出てきても、逆はなかったし、せいぜいそれが良い事だった。
ボビーは英国人のもとで教育を受けたが、それは彼を英国人にとって役に立つ道具にするためにすぎなかった。
英国人とヌンガル、という言葉がやがて白人と黒人という言葉に変わる。本音が表に出る。
「彼らはわれわれより数が多い(争っても勝ち目はない)」から、「われわれのほうが彼らより数が多い(ずっとずっと)」に変わるとき、いろいろなことが変わる。
十九世紀、オーストラリア。(そんなに昔かな。そんなに遠いところかな。)


鯨の歌を聴き、火を自在にあやつり、川の水を読むヌンガルのあの人この人が、影絵のように、蘇る。
老いたボビーじいさんは、座りこんで震える。彼と夏は、お互いを待ちわびる、という。