『がんぎの町から』 杉みき子

がんぎの町から―随筆集

がんぎの町から―随筆集


「山なす雪の下にすっぽり埋もれているときは、さすが事に慣れた雪国の民でも、この雪の消えるときがはたしてほんとうに来るのだろうかと、半ば本気で疑ってしまうこともある」ほどの高田の冬を、そこに住まう人々の冬を、ほとんど雪を見ないで過ごしてきたわたしなどが想像しきれるものではないと思う。
きっと事実や実感とは果てしない隔たりがあるのだと思いつつ、杉みき子さんの見せてくれる景色、人、思いを、懐かしいような気持ちで読んでいる。
懐かしい気持ちになるのは、自分の居場所とその居座り方・姿勢・好ましく思う方向に対する、共感や憧れのようなものだ。
遠いところに出ていくよりも、一つ所、高田という町に深く根を下ろし、日々移り変わっていく風景や人の景色を大切に胸に納め、思いをめぐらす言葉にほっとする。


著者が国立民族学博物館を訪れた際は、地球上の様々な民族の多種多様な文化を示す生活用具の展示を見ながら、雪深いところに暮らす民族はどんな雪道具を使っているのか、気になったそうだ。
防寒具としての衣類、はきもの、犬ぞり・・・「私などの持っている雪の生活の概念と、どこか微妙にちがう」と思っていたところ、東アジア館で、わらぐつやかんじきを見つけた時には「やっと自分の居場所を見つけたような、ほっとした気持ちになった」という。
それは、読書にも通じることだ。
教科書に載っていた中野重治『梨の花』に描かれたおだやかな正月は、著者にとっては「そんなばかなことがどこにあるかいや」の正月の描写であった。
逆に、見知った風景や地名に本の中で出会うこともある。たとえば、小川未明の小説や童話は、まざまざとその場所が、身近な場所として心に浮かぶのだという。
「物語の世界がまっすぐに心に流れ込んでくるよろこびが、ほとんど戦慄のように身に染みた」という言葉で表される格別の読書の喜びに、どきどきした。
自分の居場所を知る人は、そうではない場所や空気に対する「どこか微妙にちがう」ことに敏感であるし、そこに「なぜ」をみつけることができるのだろう。「微妙にちがう」ものに対する敬いもまた、知っているのだなあ、と思う。


重たい雪を雁木が支える町の舗道。通りのあちらの舗道とこちらの舗道を結ぶ雪のトンネル。トンネルを行き来する子どもたちの声は、雪の多さ(心配や見舞い)を挨拶にする大人たちを置き去りにして、弾む。
トンネルの向こうに見える店のぼんやりとうら悲しいようなあかりが、初夏には別の店かと思うほどに明るく広々と見えると言う話は、季節と光の魔法のようだ。


春には、妙高山に残雪が様々な姿を描きだす。
なかでも「はね馬」
時にひづめの音を聞くという。雪の白い馬が、山の中腹で楽しげに跳ねて踊る様が思い浮かび、読んでいる私も嬉しくなってしまう。(ああ、ひづめの音!)
「山は、何もしてくれなくてもいい。ただ、そこにいてくれるだけでいい。それだけで、人間にとってどんなに大きな力になっていることか」
山に囲まれた町を故郷にもつ私はひたすら、うんうんと頷く。


子どものころには、不思議なことも起こった。とりわけ一人でいるときには。
いるはずなのに、いない子。どこに続いているのかわからない竹やぶの中の線路(夜中に聞こえる汽車の響き)。バックミラーにかかった魔法。
ふと巡り合ったアジサイの小道には、その後、いくら探しても行きつけない。
雪ん子(座敷童子)については、彼らがいつまでも蓑帽子と藁沓でいるはずがない、と著者はいう。「私の子どものころ、雪ん子はマントを着ていた」・・・え? ほーら、お話が始まる。


自分の居場所にしっかりと根を張り、どっしりと立つ人の文章は、凛と美しい。その根元に読者をいつでも憩わせてくれる大きな木のようだ。