『ダッハウの仕立て師』 メアリー・チェンバレン

ダッハウの仕立て師

ダッハウの仕立て師


第二次世界大戦時、ナチスの捕虜となり、ダッハウ収容所長の屋敷に監禁され、家事労働をさせられたイギリス人女性エイダ・ヴォーン。
もともと腕の良い仕立て師だった(そしていつかはシャネルのように自分の店を持ちたいと夢見ていた)彼女は次々にナチスの婦人たちの衣類の仕立てを命じられる。
彼女の仕立てる服は特権階級たちの評判を呼び、ダッハウの仕立て人と噂されるようになる。


エイダは洋裁師として、抜群に才能のある娘だった。確かな腕も、この上ないセンスももっていた。18歳のこれまで、ロンドンで着実に自分の足場を固めてきた。こつこつと…このまま歩いて行ったらよかったのに。
何が彼女の人生を狂わせたのだろう。
彼女は騙されてしまった。弱みに付け入られたのだ。
彼女の弱みは、野心。うぬぼれ、虚栄心? 18歳の少女は、才能はあったが、世情にも疎かった。


暗闇のアリジゴクのような場所の底に追い込まれて、囚われて、爪を立てても登れない砂の壁に囲まれて、じわじわと喰われていく様をイメージしている。
弱いものを食らうペテン師、戦争、にわかに権力を握った者たち、そして、公平とは言えない司法制度までが、彼女に食らいつく。
この若い女は、貪欲な者たちが欲しいままの(またはそれ以上の)モノを(まるで尽きることのない泉のように)提供することができる。できる、という理由で、彼らは、彼女を心から憎み、蔑んだのだ。


戦時に、敵の捕虜になる。敵の残酷さと、暗闇のなかの圧倒的な孤独が、肉体的にも精神的にも追い詰めていく。
エイダは後に語る。
「死はわたしのなかにありました。わたしは死を生き、死を吸い込んでいました…死は自分のなかにありました。自分のなかに」
死にとりつかれながら、なんとか生を作り出そうとすること、その生をなんとか守り抜こうとすることが、闇の中で彼女を支える、生かす。
生き抜け、生き抜け、とひたすら願う。丁寧に綴られる彼女の日々の恐怖は、芯に迫る。


戦争、捕虜として生き抜く過酷さ、ナチスの残虐さなども描かれるが、そういうことは背景に過ぎない。別の時代、別の場所にもエイダはいたはずだから。
ここにいるのは、ひとりの弱者。愚かだ、と思うけれど、責められるほどのものではないだろうに。愚かさは、少し形を変えたら、もしかしたら多くの人の身に覚えのあることでもあるだろうに。(・・・わたしはある。)
エイダはアリジゴクに落ちた。
そして例えようのない苦しみを味わった。
けれども、戦争が終わって解放されても、彼女はまだアリジゴクにいるしかなかった。
彼女が爪をたてても、たてても、サラサラとこぼれ去っていく砂は、人々の偏見、無関心、そして偏った法だ。
これは、小説だ。けれども、きっとたくさんのエイダが、本当にいた(いる)にちがいない。