『椋鳥日記』 小沼丹

椋鳥日記 (講談社文芸文庫)

椋鳥日記 (講談社文芸文庫)


本の中を散歩するような読書だった。
あちらの町角、こちらの袋小路に迷い込み、あるいは森や水辺で佇む。お茶を飲みながら、景色や通り過ぎる人々をぼんやりと眺める。
そんな気持ちでいたら、いつのまにか、未読のページがなくなっていた。


小沼丹は五十三歳のとき、一九七二年四月より、早稲田大学の在外研究員として、半年間ロンドンに滞在した。(巻末解説:清水良典『「ロンドン」と「倫敦」』による。〜この解説が素晴らしい読み応えでした。)
そうか、一九七二年なのか。読んでいる間、この本の中の年代は、もっともっと昔のような気がした。あるいは、年代が曖昧な不思議な時間のように感じた。
それは、そこが「ロンドン」ではなくて、「倫敦」だからだ。
そして、今は文章の中であまり使われなくなった漢字たち(頗る、成程、此方、〜迄、心算、疎ら、覚束ない、随いて行く、這入る、草臥れる、点頭く、吃驚する、等々)が、頻々と現れるから。
わたしは、小沼丹というフィルターを通した、いつだかわからない時代のどこだかわからない遠いその町が、丸ごと好きになった。


下宿から見えるのは、荒れた感じのする庭だった。
その隅に、白い山査子(サンザシ)の花が咲き、淡紅色の石楠花の花が咲きかけていた頃、著者は、倫敦にやってきた。
すでに倫敦に暮らしていた次女と一緒に暮らす日常は、静かに流れていく。
親しく交わった人たちとの交流は、ほのぼのと和やかだが、食事に招待したりされたりは、ときに面倒くさくなってしまうらしい。
それより、ひいきにして過ごした酒屋や理髪店の店主たちとの語らいのさりげない様子、あっさりとした付き合いが心に残る。いい具合の間が感じられるから。
(別れ間近の日に、床屋の親父さんとその胸に抱かれた孫息子と一緒に撮った写真の話、もうちょっとでこの本を読み終える私にも、嬉しい贐になった。)


おもしろいのは、外国にいて、その土地なりの風物をみながら、日本のよく似た情景を連想するところ。
倫敦の月に阿倍仲麻呂を思い出したり。
電車を降りたプラットホームで「蕎麦を・・・」と思ったり。
倫敦の映画館で、吉祥寺の映画館で観た『アラビアのロレンス』を思い出したり。
巴里(パリじゃなくて巴里)への小旅行の折に、東京の赤羽についたようだ、と感じたり。


しみじみとうれしくなるのは、季節や時間によって移り変わる自然の姿をそのまま写しとったようなところ。
草花や木々のこと、鳥たちのこと。
パン屑で窓辺に呼んだスズメたちの様子。
侘しい庭の花盛りの木のこと。
雨あがりの倫敦の美しい街並みを電車の車窓から見ること。そうだ、雨の情景を読んでいると、ことにくつろげる。音もなく降りだす倫敦の雨。いつのまにか舗道が濡れている。


八つの章に分かれて語られるなかでも、心に残るのは、「老人の家」。
住宅街にあるかわいらしい外観の「老人の家」の佇まいを中心に、倫敦で出会ったり、見かけたりした老人たちの姿を描写する。
まだ認知症という言葉などない時代だった。
ちょっと謎めいた行動をする老人たちは、なんだか力強い。
気の毒とか、困ったとかいうより、周囲の人々は飄々と受け留めているような印象だし、当の老人はただ逞しくわが命を生きているように、わたしには感じられた。


才気と気品を感じる文章なのに、子どものような素直さや茶目っ気が混ざっているようで、思わず微笑んでしまう。
のんびりとした可笑しみを楽しませてもらった。


「倫敦では九月になると木の葉が散り始めるらしい」
山査子の花の季節から半年が過ぎて、「そろそろ引き揚げる潮時」を迎えたのだ。
潮時、という言葉もよい。
倫敦の空間から、今居る場所に、わたしも戻ろう。