『ネバーホーム』 レアード・ハント

ネバーホーム

ネバーホーム


南北戦争のおり、北軍に、「伊達男アッシュ」と呼ばれた兵士がいた。彼は、実は女だった――
彼――彼女の本当の名前はコンスタンス。インディアナの農家の若い主婦だ。
夫バーソロミューと二人、長いこと話し合ったのだ。どちらかが戦争に行く必要があると。
夫(コンスタンスが彼のことを「ハズバンド」と呼ぶ、その呼び方が好きだ)は、戦争には不向きだった。
だから、夫が残り、妻が戦争に行くことにしたのだ。
でも、本当の本当は、二人とも残ってもよかった。行く必要があったのは、むしろ、コンスタンス=アッシュ自身の個人的な問題であっただろう。
夫婦は深く愛し合い、慕い合っていたけれど、コンスタンスは、もしかしたら、本当は帰るつもりはなかったのかもしれなかった。(そんなことを匂わせるような記述がちらちらと物語の隙間に見え隠れする)


長い長い旅になってしまった・・・
戦争の行方は、徐々に過酷になっていく。激しさを増し、人は荒んでいく。正視に耐えないような場面が続く。
痛いとか、冷たいとか、五感で感じることすべてが麻痺していく。考えることも感じることも消えていく。
身体の奥のほうから、すすり泣きのような音が聞こえる。
自分自身さえも、もう何ものなのかわからなくなってしまう。
読んでいるページから、わあんと押し寄せてくるそういう場面を、私は全力で押し返したい。押し返せるものなら。


過酷な日々のなかで、アッシュは、ひときわ逞しい。
それでも、ときどき、現実がうつろになって、思い出がよみがえってくるのだ。
亡き母の声が聞こえる。懐かしい夫の手紙が届く。
そうして、愛する人たちのいるなつかしい光景が、何度も蘇ってくる。
思い出は、写真のように静止する光景だ。その先の場面があるはずなのに、なかなかそこに至らない。ということは、最も大切なのは、その光景の先にあるものなのだ。
その先にあるものがあまりに大きいから、思い出は、その手前で寸止めされたままなのかもしれない。
その先の話は、その手前の光景をじっくりと眺めることで代用できる、とでもいうかのように。


夢のよう。霧のよう。語り手は、語るべき言葉を語らないから。
多分、その言葉を最初から掲げていれば、物語はもっとずっと明瞭だっただろう。
でも、そうしたら、全く違う物語になってしまっただろう。
もうろうとしたまま私はコンスタンスとともに戦争の中を旅していく。
家を離れるため。家へ帰るため。
家は、母であり、夫であり、別のもの。
家は帰りたい場所であり、帰りたくない場所である。強く求めながら同時に拒んでいる。


「ああ、そうだったの。そういうことだったのか! まさかそれが本当だったのか!」
そんな思いを抱いたりもする。ほんとうだったら、こんなふうに思うことは胸に風穴を抜かれたようなセンセーショナルな読後感に結びつくはずだけれど、この物語は静か。
「信じられない」という、その思いさえも信じられなくなっていく。
(ほんとうは知っていたんじゃないか、さあ、どうなんだろう。)


みんな、どこか遠くの方に去っていく。
でも、去っていったものたちは、そのうち、読んでいる私自身のなかにゆっくりと姿を現すような気がする。
わたしは、この物語のなかで、主人公とともに旅を始めてしまったから、この先も、さらに先まで、歩いて行かなければ。
主人公が亡き母と言葉をかわしながら旅していたように、わたしは、主人公と言葉を交わしながら旅を続ける。