『エヴリデイ』 デイヴィッド・レヴィサン

 

エヴリデイ (Sunnyside Books)

エヴリデイ (Sunnyside Books)

 

 

彼(彼女)は、物心ついたとき(そして自分がどういう存在なのか知ったとき)自分にAと名をつけた。
Aは、毎日違う人物として目覚める。
朝起きた時、最初に自分がだれなのか知る。体の特徴を知り、その人の生活や背景を知る。そしてその人物として、一日を過ごす。明日はない。明日はちがう人物だから。そこにとどまることも、自分で宿主(自分がその人として一日を過ごす人物のことをそう呼んだ)を選ぶこともできない。
宿主は、距離的に限りある範囲の地域に住むが、人種も性別も、時には母語さえも、ばらばら。
ときには麻薬常用者であったり病気であったり、鬱病でいることもある。
毎日ちがう人物として過ごすけれど、AはAとしての意識を持っている。成長している。Aは今16歳なのだ。Aが16歳であるとき、Aの宿主も16歳だ。


なんという人生なのだろう。
ただのひとりも、Aの存在を知らない。Aのような存在は周りには誰もいない。
自分がもし死んでも、誰もその死を悼まない。だれもAの死を気付くことはない。
ここまで深い孤独があるだろうか。
彼には続きの未来がない。
何かをコツコツと積み重ねていくことも、なりたい自分を思い描くこともできない。
Aは、まだ小さかった時、眠るのを嫌がって泣いた。(今日の)お父さんやお母さんと離れたくない、と泣いた。「明日また会えるでしょ」はあまりに残酷な言葉だった。Aには、明日がないのに。


でも、こういうことを残酷だと思うのは、Aという存在が、この世にたったひとりだけだと思うからだ。
もしみんながAのようなら、この世は、そういう条件にあった社会になるはずだ。
どういう社会になるのか想像できないのだけれど、Aは、のびのびと自分の人生を謳歌できるはずだ。
そんな世界に、わたしのように一つの体で一生をすごす存在が生まれてしまったら、生きていくことがどんなに苦しいだろう。


あるとき、Aは、ゲイの高校生として目覚め、恋人と一緒にゲイ・パレードに参加する。
そのときにAは、こんなふうに考える。
「愛は愛だ。相手の性別に恋するんじゃない。その人に恋するのだ」
その人に……
性別も人種もない、Aの物語を読んでいると、「その人」という言葉は、当たり前の言葉になる。同時に、「その人」ということばが、とてもせつない言葉になる。
Aの目からみたら、(たとえば)LGBTという言葉は意味がない。外側の問題に過ぎないのだから。
「どうして人間は怖れているものに悪魔と名付けるんだろう」という言葉も心に残った。
怖れは、相手を知らないこと、見えないことにつながっている。


Aは恋をする。リアノンという名前の少女に。
Aは別の人物の姿で、可能な限り(あらゆる意味で不可能なことが多い)その日その日、なんとかリアノンのそばに行こうとする。
そして、リアノンは、この世で唯一、Aという存在(外側が何者であれ)を知る人間になる。


AがAとしてリアノンと連絡を取り続ける手段は、メールだ。
なんだかほっとする。良かったな、メール(ネット)があって、と思って。
実体のないネットの世界と、Aという存在は、よく似ている。実体がない世界だから、Aは(その姿が変わっても境遇が変わっても)ずっとAでいられる。
大切なのは、外側ではなくて、内側。
けれども、そうはいっても、恋したら、相手の外側に触れたくなる。内側だけでいられなくなる。それは、何という皮肉なのだろう。
人と人とが理解しあおうと思うとき、外見にとらわれたらうまくいかないけれど、内面だけでもだめなのかもしれない……


一番心に残ったのは、Aがリアノンとして、目覚めた一日のこと。
大切に過ごす一日。触れてほしくないだろうリアノンの内側・外側を守り、大切に過ごす一日の、Aの気持ちが書かれた一行一行があまりに愛おしくて、愛おしくて。ただ、大切に読んだ。