『この世にたやすい仕事はない』 津村記久子

 

この世にたやすい仕事はない (新潮文庫)

この世にたやすい仕事はない (新潮文庫)

 

 

「私」は、14年も続けた前職を、燃え尽きるようににしてやめた。しばらく自宅でゆっくりした後、新しい仕事を探し始める。
そして、職安のベテラン相談員の紹介で、短い期間に、次々五つの仕事に就く。
みはりのしごと、
バスのアナウンスの(原稿を作る)しごと、
おかきの袋の(裏面に載せる豆知識を作る)しごと、
路地を訪ね(ポスターを張り替え)るしごと、
大きな森の小屋での簡単なしごと。
そんな仕事が本当にあるのか(あるのかもしれない)と驚くような仕事ばかり。


どのしごとも、職場の人間関係はほのぼのと温かい。仕事は本当にそれほど難しくはないし、厳しいノルマもない。
妙な仕事だけれど、それぞれにやりがいがある。
だけど、長くは続かなかった。
何が問題なのか、といえば、なにかが変な感じなのだ。
ふしぎなことが起こる。
と書くそばから、ほんとに不思議なことが起こったのだろうか、そんな気がするだけで、何事も起こっていないではないか、とも思う。
なんだろう、この雰囲気。
それぞれのしごと、それぞれに見た目どおりではないような。


たとえば、二つめの仕事の上司の言葉、
「ないじゃないか、と思ってたら、あったりするし、なくしてしまったら、本当になくなってしまったんだよね」
という言葉。
なぞなぞみたいな言葉が、そのまま、他の四つのしごとにも当てはまるような感じ。


たとえば、四つめの仕事に出てきた、あやしい団体の人々がいう「さびしさ」について。
そういう寂しさは本当にだれの胸にも潜んでいるんじゃないか、と頷きそうになるが、彼らの優しい言葉や仕草には、なんともいえない薄気味悪さがある。
ひとの「さびしさ」に簡単に踏み込むべきではないし、簡単に仕分けしてはいけない、と思う。
また、そういうことにかまけていると、誰も知らないうちにもっと大きなものの影が、頭の上を覆うようにして、ふわりと通り過ぎていく。その影は何なのだろうなあ、と不安になる。


「私」は不器用なくらい一生懸命だ。しごとにもどんどんのめりこんでいく。しごとへの野心というのではない。それは、どちらかといえば献身だ。
もしかしたら、ここまでのめりこまなければ、不思議を不思議と感じることもなかったかもしれない。
ここまで疲れてしまうこともなかっただろう。


けれども、物語を読み進めるうちに、さばさばとした気持ちになってくる。
それは、主人公の心持ちが徐々に変化しているのを感じるから。
いくつかのしごとを転々とするうちに、
「私」が望む仕事の内容も、働き方も、だんだんと静から動、内から外へと、変わってきていることに気がつく。
何かが始まりかけている。
それは楽しみなことなのか、不安なことなのかわからないけれど、わからないことは面白いと思う。