『言葉と歩く日記』 多和田葉子

 

言葉と歩く日記 (岩波新書)

言葉と歩く日記 (岩波新書)

 

 

 

2013年1月1日から4月15日までの、おもに言葉についての日記である。


著者は、自作『雪の練習生』を日本語からドイツ語に翻訳している最中だが、それがなかなか進まない。
物語の初っ端に出てくるのは「手」だ。
日本語で単に「手」と書かれていたら、それだけでは何者の手であるかはわからない。(作者は、この時点ではわからないままにしておきたい)
でも、ドイツ語では、人の手と熊の手は、まるっきり別箇の単語なのだ。


先日読んだ『地球にちりばめられて』のテーマが、この日記の中にも、あちこちにあらわれている、と思った。
著者は、『雪の練習生』のために、ドイツ語の熊の手と人間の手をあらわす二つの単語を合体させた新しい単語をつくろうとしていた。それは、「地球に……」のHirukoのパンスカ語を思い出させる。
「もしも、「母語」を「祖国」のように崇め、それが「迫害」され「滅びゆく」ことを嘆く大げさな身振りを見せられたら、「それ、ちょっと違うんじゃない?」と口を挟みたくなったと思うが……」
という言葉も、『地球に…』に繋がると思う。


たくさんの言葉の、たくさんの面を見せられた。
日本語のあいまいな表現のこと、日本語には主語がないこと、訓読みと音読みのこと、縦書きのこと、字形のこと、
日本語とドイツ語の時制について、
ドイツ語の若者言葉の乱れは、本当に乱れているのか、ということ。
日本語の話はドイツ語にとび、ドイツ語から日本語に飛ぶ。行きつ戻りつしながら、まるで砂をふるいにかけるようにして、言葉の粒々を吟味しているような感じだ。韓国語や英語のことばも出てくる。


「外国語を学ぶのは、実際に使うためだけではない。外国語を勉強したことがなければ、母語を外から眺める事が困難になり、言語について考えようとした時にそれがなかなかできない。鏡を使わないで自分の目を見ろ、と言われたようなものだ」


わたしが気にも留めずにいた当たり前のことば。でも、ちょっと立ち止まると、その当たり前は、なぜそうなのか、わからないことばかりだった。
ときには、
おもしろいこと(たとえば日本語の「湯」という言葉を英語のように「熱い水」という風に表したら、それはどうだろう)、
美しいもの(たとえば「空港」という熟語を、中国の詩人が美しい、といった)
がみつかる。
言われてみれば、変じゃないか、と思う表現もみつかる(たとえば、広辞苑の「日本」という言葉の説明にある「わが国の…」の「わが」とは誰のことか)
自分もまわりも日本語だらけ、という環境になれすぎて、鈍くなっている感覚も確かにある。
感覚を揺すられている。
そうしていると、今まで漠然と見ていたものの向こうに、別のものが見えてくる印象だ。
言葉の話から、原発事故のこと、ナチスを支持した「いい」ドイツ人のこと、戦争に加担した「平凡な」日本人のことも、書かれていた。


「わたしは自分は躍らないが、文法や文体を規則や形ではなく、踊りのようなものとして捕えたいと思っている」
言葉って本当に生きもののようだ。身をくねらせて大きな生きものが踊っている。