『小川』キム・チュイ

 

小川

小川

 

 ★

この本は、短い章(わずか三行の章もめずらしくない)が寄り集まってできている。
この一章は、ここにいる「わたし」ことグエンが何歳くらいの頃の話なのか、どういう場面について語っているのか、何一つ説明がない。
時の流れも、場所も、ばらばらなのだ。
だから、暗闇の中を、おそるおそる手さぐりするような感じで読み始めた。
それなのに、いつのまにか、手を伸ばして触れるものの手触りを喜び、ひとつひとつ味わう事を楽しんでいた。
この本を読み返すとき(たぶん、何度も読み返すことになるはず)、わたしは、もう最初から順繰りに読まないと思う。あちこちの章を拾いながら読む。たった三行の章であっても、そこに潜む物語は三行分で終わらないのだということを、わたしはもう知っているから。


帯には、「ベトナム戦争後の混乱の中、ボートピープルとなってカナダに渡った少女の自伝的小説」と書かれている。
狭い船倉の暗闇に二度と立ちあがることはないかもしれないと思うくらいに身を寄せた人の間を悪臭を放つ壺が手から手に回されていく様。
キャンプの赤い土の上の寝床。滑りやすい木の足場のついたひたひたの穴だけの便所に落ちてしまった一足きりのサンダル。
あるいは、自宅の中に作られた壁。居間に閉じ込められながら、検査官が、部屋部屋の家財をひとつひとつ封印していくのを待つ大人たち、検査官のあとをついてまわる子どもたちのこと。
あるいは、遠い国の蚊やノミたちが歌うなかで、自分の皮膚は蚊が刺すこともできないくらい固くなって居ることに気がつくこと。


戦争が終わるまで特権階級にあった両親は、戦後は、仕事さえあれば工場やレストラン、他人の家の台所で働いた。
祖父母のことは、父方、母方、どちらのことを語っているのだろうか。大勢の伯父叔母たち、いとこたち。信奉する主義によって、戦争によって、ばらばらになった親族。
親族への思いは慕わしさがあふれている。
相手が子どもだからと油断して見せてしまった後ろ暗い秘密を、子どもはほぼ正確に理解している。でも、告げ口はしない。
それでいて、子どもだから、見えていながら気がつかないことも多くあった。自分が親になって初めて気づいた、それぞれの心情。


ボートピープル」にすらなれず、名もなく死んでいった人がいる。
難民キャンプの固い土の上に直に横たわることができたものは、難民になれたものは、神の祝福を受けた身なのだ、とグエンはいう。


決して楽しいといえるような物語ではないはずだった。けれども重苦しいはずの文章は、むしろ明るさを湛えている。水面に踊る日光のようなきらめき。
どの章の物語の中にも、怨みや後悔はひとつもなかったと思う。
ただ、グエン自身の体の中の血の小川が覚えている景色を、小川に混ぜ込まれた記憶を、思いだすままに、言葉の風景画を描こうとしているのではないか。


カナダの公用語は、英語とフランス語、二つだ。「二つの孤独」と呼ばれる。
そして、戦後、ベトナムでも、北と南でベトナム語の発音が全く違うことに気がついた「わたし」は、ここにも「二つの孤独」がある、という。
もしかしたら、グエン自身のなかにも、二つの孤独があるのかもしれない。
カナダで希望と勇気を与えてくれた「アメリカンドリーム」は、同時にベトナム人であることとベトナムの言葉とを失わせた。
あるいは、彼女の忘れられない親族たち、二つに分断された親族。
いくつもの二つの孤独が、物語となって出会い、ともに小さな流れになろうとしているのではないか。


家出したグエンの息子が、セントローレンス川の波の規則的なリズムと絶え間ない動きに魅了され、静められ、守られたように、わたしも、この本を読む間、ささやかな川の音を聞いていた。そのリズムに揺すられ、満たされていた。
グエンの語る言葉によって、彼女の小川が、わたしの中の小川に静かに流れこんでくる音、リズムだ。
とても心地よい……