地球にちりばめられて

 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

 

言語学を研究する院生クヌートは、ぼんやりとみていたテレビで、
「自分が生まれ育った国がすでに存在しない人たちばかりを集めて話を聞く」という趣旨の番組の、ある女性が流暢に話している言語に興味を持つ。
普通に聞いて理解できる言語だが、デンマーク語でも、スウェーデン語でも、ノルウェー語でもない。それは、彼女が作った人工語なのだ。
移民としてスカンジナビアの国々を転々としてきた(これからもそうしていくしかない)彼女が、よく似た国の言語を混乱しないで使うため、スカンジナビアの人が聞けば大体意味が理解できる人工語を作ってしまったのだ。汎スカンジナビア、略してパンスカ語、という。
彼女の名前はHirukoといった。
彼女は、中国大陸とポリネシアの間に浮かぶ列島で生まれ育ち、奨学金をもらって一年の予定でイェーテポリに留学したが、もうちょっとで帰国、という時に、自分の国が消失してしまい、家に帰れなくなってしまった。
それ以来、自分の国の人にあったことがないのだそうだ。
Hirukoは、自分の母語を話す人を探している。自分の母語が話されていた国がどうなったのか知りたい。
クヌートがまず、Hirukoの旅に同行し、その途上で、出身地も、使う言語も、生き方も、ばらばらの人々が旅の仲間に加わる。
失われた言語と人をめぐる旅の物語には、はっとするような言葉の片鱗があちこちで見つかる。

 
Hirukoの国は日本だ。日本、とはどこにも書かれていないけれど、新潟、福井、などの名前が出てくる。消えかけた風情でなじみの文化なども出てくる。
国が突然消えるってどういうことなんだろう、とまずその言い回し(?)に戸惑う。実態が煙のように消えてしまったのだろうか。それとも実態はあるけれどその有り様が変わってしまったということ?
戸惑いつつ読み進めれば、何か災害が起こったらしいことがうすうす感じられるのだけれど。(既視感のある単語がいくつも出てくる。実際に起こったことと微妙にずれているが)そのために、海に没してしまったのか。
それにしても……突然に、忽然と、とても静かに、何もかもが消えてしまう、それはどういうことなんだろう。
それはいつのことなんだろう。
これは、いつの物語なんだろう。


自分の生まれ育った国が消える。
読みながら、根っこが消えてしまったような不安を感じていた。
でも、逆に、吹っ切れたような自由も感じていたし、それがどんどん広がってくるのも感じていた。こんな感じになるなんて不思議だったけれど。


クヌートの語りのなかに、こんな話があった。
子どもが言葉をしゃべり始めたとき、子どもは、力では全くかなわない大人を言語で動かすことができることに気が付くが、同時に、言葉は、大人によって子どもを縛る道具にも使われる可能性を持ち始めるのだ、という話。
国に属する、ということもちょっと似ているかもしれない。
「ネイティブは魂と言語がぴったり一致していると信じている人たちがいる。母語は生まれた時から脳に埋め込まれていると信じている人もまだいる。そんなのはもちろん、科学の隠れ蓑さえ着ていない迷信だ」
という言葉も出てきた。
「ある言語が独立した言語なのか方言なのかを定義する場合、政治的な意図が働いていることが多い」
という言葉も。
「国が消える」ということは、危なげな民族主義的なものから解き放たれる面もあるのかもしれない。


いろいろな人々に物語の中で出会った。いろいろな言語が出てきた。いろいろな言語を話す人が出てきた。
人工語も、聞こえない言葉も、でてきた。
言葉のあるところには、人がいる。人がいなければ、言葉はない。
「聞こえないけれど理解できるから不思議ね」
とHirukoはあるとき言った。
言葉ってなんだろう。
誰か(自分自身ももちろん含めて)と真剣にかかわりあおうとするときに生まれるものなのだ、と思う。吹っ切れたような気持ちで思う。

 
Hirukoというのは何者なのだろうか。
Hiruko自身と、彼女がさがしもとめているものと、ともに、物語と呼びたい。
神話であり、民話であり、まるっきり新しい種類の物語であるような。
Hirukoと仲間たち、それぞれの旅は、「探す」旅である。
それぞれの旅の芯になる「物語」が、Hirukoなのではないか。
壮大な神話のはじまりを見届けているような感じだ。