『戦争と児童文学4 空爆と暴力と少年たち』 繁内理恵 (『みすず』2018.10月号より)

 

みすず 2018年 10 月号 [雑誌]

みすず 2018年 10 月号 [雑誌]

 

 

連載『戦争と児童文学4 空爆と暴力と少年たち』(繁内理恵)を読む。
副題:『「ブラッカムの爆撃機」――戦争の中に現れる幽霊』


この連載で、今まで繁内理恵さんがとりあげてきた作品の主人公は、町の中や疎開先の農場で暮らしている子どもたちだったが、ここで、はじめて青年の兵士を主人公にした作品がとりあげられる。
「一歩間違えれば戦争賛美になりかねない戦勝国の軍隊の物語で、ウェストールが語りたかったものはなにかをさぐってみたい」


今回も引き込まれて読んだが、なかでも、戦闘機乗組員たちの間に現れた亡霊について書かれた部分が心に残る。
主人公たち戦闘機の乗組員の間に、恐ろしい亡霊があらわれる。
けれども、兵士たちは、自分が何を見たのか話そうとしないのだそうだ。
軍隊では、人間らしい感情はタブーであり、彼らは、戦意喪失につながる恐怖、不安をことばにして口にすることはできなかったのだ。
(自らを縛るものであったとしても、そう仕向けられたことで)ことばを奪う暴力が、人間を人間じゃないものに変えていくように思えて、恐ろしかった。


繁内理恵さんは、この亡霊のことを「軍隊のタブーである恐怖の具現化」であるという。
「ウェストールは、語られない兵士の恐怖と不安を、幽霊にして引きずり出して見せた」と。
けれども、
「一番恐ろしいのは、どれだけこの恐怖を引きずり出してみたところで、それが実際の戦争の中で何のブレーキとしても働かないことだ」

 
非人間的な軍隊で、青年たちの胸に息づいているのは「ささやかな美しい場所」だ。
「ささやかな美しい場所」は日常の生活の中にあるもの。
それが戦争に抗う道に繋がるのではないか、と単純な私は思う。
けれども、「そんな彼らもやはり兵士としての価値観からは逃げ出せない」のだということを見せつけられる。


なんて容赦がないのだろう。
……戦争なのだ。彼らが(19歳だろうが18歳だろうが)所属しているのは、殺しあうための軍隊なのだ、ということを思い知らされる。


「『ブラッカムの爆撃機』は、爆撃機という皆が憧れがちな存在の影に何があるのかを書いてみせた。それは、戦争をイメージとして消費しようとすることへの痛烈な皮肉でもあるのだ」
と繁内理恵さんは書く。
「若者を使い捨てにする戦争への痛烈な批判でもある」と。

 
そのうえで、それでも、繁内理恵さんは「この中編には不思議な美しさと魅力がある」と書く。それはいったいなんだろう。
爆撃機の中にいて顔の見えなかった兵士の人間としての姿が、命の尊厳への敬意をこめて書かれているからではないかと思う」
命の尊厳への敬意、という言葉が重い。


『ブラッカムの爆撃機』わたしは未読。この評論を傍らに置いて、近いうちに読んでみようと思う。