『エレナーとパーク』 レインボー・ローウェル

エレナーとパーク Eleanor&Park

エレナーとパーク Eleanor&Park


ロミオとジュリエット』の恋人たちのことをシェイクスピアはバカにしているのだと、エレナーは言う。
国語の時間に、彼女が、なぜそう思うか語るところはとても興味深いもので、パークでなくても注目する。


エレナーもパークも16歳。
エレナーは転校生だった。初めてスクールバスに乗った朝、誰も彼女に席を譲らなかったので、見かねたパークが自分の荷物をどけて「クソッ」と言いながら彼女のために席を作ったのだった。


エレナーはお世辞にもスタイルがいいとは言えないし、その態度も親しみが持てるとは言えなかった。くしゃくしゃの赤毛と、奇妙な服装で、悪目立ちしていた。
パークは、韓国人の母を持つ、アジア系の男子。コミックと音楽が好きな、ちょっとオタクっぽい男の子。
二人がつき合うようになったのは、間違っても一目ぼれなんかじゃなかった。
なぜ、彼らが、互いに意識するようになったのか、なぜ、惹かれ合うようになったのか。
相手に恋していることに気が付き、やがて、相手も自分のことを好いていることに気がつく。互いがこの上なく大切な存在になっていく、自分自身以上に価値ある存在に。
その一方で、気おくれして自分を卑下したくなったり、あるいは、ちょっとしたことで腹をたてたり。
自分は相手に釣り合わないのではないか、なぜ相手は自分などを好いているのだろうか、と思ったり。
幸福ではち切れそうな風であったかと思うと、そのそばから、不安がもくもくとふくれあがってきたりする。
恋の過程がなんて細やかに描かれていることだろう。ちょっとでも乱暴に扱ったら壊れてしまいそうなくらいの繊細さで。


相手のことを何もかも知りたいと思う。理解したいと思う。
けれども、それはなんて難しいのだろう。
エレナ―とバークは、まるっきり違う環境で育ち、まるっきり違う環境で暮らしていた。
ことにエレナ―。
エレナ―の、あまりに過酷なサバイバルの日々に、だれがどうしたら手を差し伸べることができるのだろう。
本当は何もかも話したい。わかってもらいたい。きっとそうなのだ。
でも、実際、分かってもらうことは難しいだろう。そもそも、伝える術がない。どう話したらいいのだろう。
ひとつひとつ順繰りに話せば、パークは解りたいと思うだろう。わかろうとするだろう。でも、きっと言葉にして伝えられることって(目にみえることって)ほんの一部分でしかないのだろうなあ、と思う。


そして、パークも、エレナ―にさえ話せないことがあった。
16歳なりの悩みを持っているにしても、平凡に幸福に暮らしているように見えるパークだったから、そんなことをそんな風に苦しんでいたなんて、誰も気がつかなかったと思う。


二人がどんどん離れがたく惹かれ合っていくのを見ながら、二人が互いに話せずにいることや、理解できるはずない(と思う)ことなどが、傍目にも、くっきりと見えてくる。
そうなると、離ればなれになるときがどんどん近づいているような気がしてくる。
読み終りたくない。ページをめくりたくない。このままでいさせてやりたい。
(それとも、「わからない」を飛び越える何かがあるのだろうか)


最初のほうの、国語の授業での『ロミオとジュリエット』でのエレナーの言葉をずっと意識しながら、この本を読んでいた。
エレナ―は「シェイクスピアはふたりをバカにしている」と言った。「一目ぼれ」も否定した。だったら、物語の結末も・・・
もしかしたら、エレナ―の言葉は、作者の気持ちそのままだったのかな。それなら、エレナ―とパークの物語は、もうひとつの『ロミオとジュリエット』だ。