『カランポーのオオカミ王』 ウィリアム・グリル

カランポーのオオカミ王

カランポーのオオカミ王


まずは、絵に惹きつけられた。
この美しい表紙、色鉛筆で描かれているのだ。だからかな。まるで織物のような素朴で暖かい質感がある。
中の絵は、もうちょっと、あっさりしたタッチと、赤茶色を基調にした色合いで、画面は広がりを感じる。
動物たちの姿や表情、荒々しい場面でさえ、あたたかみがある。
ちょっとクラシックな絵だからかな、色鉛筆で描かれた線にも面にも「余白」があるからかな、この絵は、気持ちをゆったりとさせてくれる。


『オオカミ王ロボ』は、子どもの頃のわたしが(そして、わが子も)、子ども向けに書かれた『シートン動物記』を次々に読むきっかけになった物語だ。
ロボを追うシートンは悪役であり、「ロボ、捕まるな捕まるな」と願いながら読んでいた。
それなのに、シートンの物語を次々に読んだのは、なぜだっただろう。
そんなことを思いながら、この絵本を開く。


シートンは、自分が狩ろうとするロボに敬意をもっていた。
ロボたちが家畜を襲うには、深刻な理由があったが、人間の側に立てば、ロボを見逃すことはできなかった。
……ロボとのたたかいは、その後のシートンの生き方を大きく変える。
この絵本の最後に掲げられたシートンの残した言葉には強く心を揺さぶられる。


わたしは、この絵本のシートンのまなざしに、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』の巻末の『解説』での鶴見俊輔のこの言葉を重ねている。
「たたかっている相手に対して、敬意をもちたいと、この少年(「ぴいちゃあしゃん」の主人公の少年)は感じている。それは、不幸にして戦争にまきこまれた時に、人間がもちうる最低の義務だと私は思うが、それをもち得たものは、当時の日本人の間には少なかった」
相手が人であろうが、動物であろうが、「人間としての最低の義務」・・・最低の義務を心に留めることのできるものだけが、なにかを守る、という言葉を使うことができるのではないか、そんなふうに考える。


シートンはとても矛盾に満ちた人間だった」そうだ。
シートンの物語に惹かれ、次々に読んだ日々、シートンの「矛盾」に無意識に共感していたような気がする。
けれども、シートンは、この矛盾から、さらに先へと進んでいけた人だったのだ。


シートンは曾て、敬意をもって偉大なオオカミを描いた。
ウィリアム・グリルは、敬意をもって偉大なオオカミを描いたシートンの姿も描いた。
絵本のページを軽々ととびこえて、ロボとブランカ、二頭の美しいオオカミが、駆けていく。ずっと駆けていてほしい。