『あさはだんだん見えてくる』 岩瀬成子

朝はだんだん見えてくる (名作の森)

朝はだんだん見えてくる (名作の森)


失礼な言い方をしてしまうけれど、荒っぽいと感じる所がある。
それでも、いや、それだから、だ。それだから、そういうこと全部が燃え上がるようなこの作品の熱さ、凄味に、容赦なさに、圧倒されてしまう。
これが、四十年前に書かれた児童書だとは・・・
岩瀬成子さん25歳のデビュー作なのだ。


「本当のこと、ホントノコトって何だ。あたしが他の人じゃなくて、他の人のまねじゃなくて、あたしが本当に自分の意志で――。あたしは何がしたいんだろう。何ができるんだろう。あたしの意志、自由……ああ、こんなことって。ばかな。なんで生まれてきたんだ。こんなことって、こんなことって。」
「……いったいいつまでつづいてゆくんだろう。年とって、死ぬまでこんなふうに、いつか何かがなんて思いつめて眠るのだろうか。スタートをきれない助走がいつまでも……。」
「わなだ、わなだ、人生なんて。」
奈々は中学三年生。
バイクの後ろに乗って駆けること、ポケットの中のたばこ、深夜のスナックでのビール。反戦デモへの参加。
どきっとするような、はらはらするような行動は、彼女を取り巻く閉塞感に、必死にたてた爪あとだ。爪をたててもたてても、血を流すばかりなのに。
まわりからは「しらけている」「純粋すぎる」と噂されながら、彼女はあてもなく、(何があるかもわからないのに)何かを探さなければ、生きていけないような気がしていた。
純粋すぎる、と奈々を笑うことなどできるだろうか。
苦しみもがき続ける奈々に、何かしら、どこかしら、既視感のようなものを感じてしまう。
感じながら、同時にそこまで突き詰めることなく、大きなものにただずるずると呑まれるように安心のなかに潜って行ってしまった自分のことも思いだすから、居心地が悪くなったりする。
それでいいのだ、と思っていた。それが大人になることだと思っていた。
本当にそうだったのだろうか、中途半端なまま逃げ出したものは、逃げ出したころのまま、そこで待っているのかもしれない。そこに戻らなければ、本当に大人になることなどできないのかもしれない。


奈々の住むI市は、基地の町だ。
15歳の奈々の中にも、自然に「基地」は流れ込んでくる。
基地の町(基地がある、ということが目に見えるところ)に暮らす、ということは、奈々の閉塞感と結びつく。
社会が何を子どもたちに求め誘導しようとしているのかということにも、それに無意識に応えようとしている大人たちの姿にも。
戦争に反対だといいながら反戦運動にも反対するのは矛盾している、という奈々の言葉が突き刺さる。


奈々は絵を描いている。キャンパスに現れるのは「燃える森」
森を燃やす炎の勢いはどんどん増している。
きっとこの絵はどこまでも未完だ。