『青と白と』 穂高明

青と白と

青と白と


震災の日から始まるのだ・・・
作家・戸田悠――悠子は、東京在住であるが、実家は宮城県名取市である。
自宅の部屋にいた時に襲われた激しい地震
宮城の震度7に驚き、予想される津波の高さ十メートル以上に驚き、父母は駄目かもしれないと思いながら、彼女はバイト先へ向かう。
そこでそのとき、バイトなのだ、ということが、怖ろしい臨場感を伴って迫る。
想像を超える事態は、きっと感覚を麻痺させる。


過ぎていった(過ぎることのない)日々が、文章になって迫ってきて、テレビや新聞、ネットでさえ伺いしれなかった、人々の思いを、今、物語から静かに受け取っている。
章ごとに、「わたし」は、悠であり、母であり、妹のナツになる。
それぞれの視点から、震災後に変わってしまわざるを得なかった一人ひとりの思いを辿っていく。


それとともに、一人だけ東京にいる悠だからこそ感じる、東北に所縁のない人々との溝を、あらわに見せられたと思う。
「そして私達は、震災のことを終わったことではなく、これからも決して忘れないことが大切ですよね」
「被災した人達に音楽で元気になってもらいたいんだ」
悠のあとをついて読んでいれば、これらの言葉から滲み出てくる軽さに、気がつく。
言った当人は気が付いていない。
それは、震災のあの日に聞こえてきたという「何だかワクワクしてきた」「非常時って感じですよねー」という言葉の続きのようにさえ感じる。
そんなことはない、自分は違う、と言いたいけれど・・・言えない。わたしには。
外側にしかいられない人間には気がつかないことがいっぱいある。
そして、気がつかない、ということが「溝」なのだと思う。


亡くなったのは、「遺体」ではなくて、おばだ。やさしいおばだ。
その場所は、「被災地」ではなくて、幼い時から何度も駆け上った坂道だ。
便利に使ってきた言葉は、人や場所から名前を奪う。その無神経さ、残酷さに、はっとする。


(「溝」を簡単に埋められるなんて思わない。
でも、そこに「溝」があるのだと、しっかり意識しながら、「溝」のこちら側とあちら側で手探りで手を伸ばせたら。この本を携えて。)


悠は、震災後、小説が書けなくなっている。
悠は自分の小説の事を考える。
こんな時に小説に何ができるのか、との行きつ戻りつの逡巡は、小説とは何者なのか、(このとき)小説に何ができるのか、という問いかけであり、一つの大きな答えである。
それが、この物語のもう一つのテーマでもあると思う。