『ポンド氏の逆説』 ギルバート・キース・チェスタトン


この本には、政府の役人であるポンド氏を探偵役にした八編のミステリが収録されていますが、
なんとも知的で優雅な「言葉」のゲームに招待されたような気持ちになる。
抜け目なく張られた伏線は、ここでは「何が起こっているか」ということよりも(それももちろん大事だけれど)そこに、どういう言葉、文章、文体が使用されているか、ということのほうが大きな問題になっているようだ。


例えば…
A、B、C、D、という四人の人物がいたとする。そして、ある時のAの言動について残りの三人が、こう証言する。
B言う。「Aはその日、これからX家へ行く、と言っていた」
C言う。「Aはその日、これからX家へは行かない、と言っていた」
D言う。「Aはその日、これからY家へ行く、と言っていた」
さて、これらの矛盾した言葉は、一体何をあらわしているのだろうか。


そもそも、この本のタイトルは『ポンド氏の逆説』で、逆説こそポンド氏のお得意なのである。
逆説の定義とは?
「人目を惹くために頭で逆立ちした真理」ですって。・・・煙に巻かれてしまう。
たとえば、ポンド氏は、言う。
「ある国の政府は、好ましいよそ者の国外追放を考えねばならなかった」(「好ましからぬ」ではなくて)
また、こうも言う。
「自然界に於いて、高く上がるものを見つけるためには、低いところへ下りていかねばならない」
こういう言葉が出てくると、周りのお友達連中は、それポンド氏の逆説が出たぞ、と思うのである。
そして、読者は、ああ、事件は解決したのだな、この意味さえわかれば真相も分かるのだな、と思うのだ。


おとぎ話を読むような、ゆったりとした気分にさせてくれるミステリだと思った。たとえ殺人事件をあばくミステリであったとしても。


ポンド氏に接した印象を、幼い頃の「私」は、庭の池(ポンド)にたとえる。
いつもは静かにきらきら光っている池が、たまに、ちがってみえることがある。
水面を何かの影がよぎり、光のひらめきとともに、何かグロテスクな怪物(魚など)が、空中に姿をあらわし、また水中に消える。
そのように、いつもはおだやかなポンド氏には、突然怪物に変貌するような、薄気味悪い所があったという。


ああ、それこそ、おとぎ話がそうではないか。穏やかで牧歌的な語り口、静かに展開していく物語には、実はかなりおどろおどろしいものがひそんでいたりするではないか。
本を読みながら、何の気もなく、これはおとぎ話のようだ、と感じていたけれど、そういう意味で、まさしくこの作品集は「おとぎ話」集だった。