『次元を超えた探しもの 〜アルビーのバナナ量子論』 クリストファー・エッジ

次元を超えた探しもの: アルビーのバナナ量子論

次元を超えた探しもの: アルビーのバナナ量子論


アルビーの母さんは、ガンで亡くなった。
アルビーの父さんも母さんも科学者だ。
「母さんを見つけるのに<量子物理学>を使えばいい、と教えてくれたのは父さんだった。」
量子物理学。
難しいこの学問を、亡くなった母さんに再会する理屈にからめて、小学生のアルビーに分かるように説明していく父さんの言葉と、自分の言葉で考え、できる範囲で理解しようとするアルビーの考察と・・・
やさしく書かれているはずだけど、む、難しい^ ^
ああ、こういうことを面白がる子はいる。
科学の扉を開き損ねたまま大人になってしまった私は、「物語の初っ端で、早くも挫折?」と焦っていたが、以下のアルビーの言葉に、はっとわが意を得た気持ちだった。
「ぼくには量子物理学が、サイエンス・ファクトというより、サイエンス・フィクションに思えてくる」
要はパラレル・ワールドだ! 理屈はあとからついてくる(かもしれない)
「多世界理論によれば、パラレル・ワールドは無数に存在し、それぞれの世界では自分そっくりの人間がそっくりな生活をしていますが、なにかを選択することで起こる小さな変化があります」


アルビーの母さんの研究はこのパラレルワールドの発見の一歩手前まで進んでいたようだ。
そして、この研究が保存された母さんのパソコンと、腐りかけたバナナをつなげることで、パラレルワールドに飛ぶことを発見したのはアルビーだ。
アルビーは、飛ぶ。この世界とそっくりの(でも少しだけ違った)世界へ。世界から世界へ。
無数のパラレル・ワールドのどこかに、母さんが生きている世界があるはずなのだ。アルビーは、生きた母さんに会いたかった。


アルビーは、あちらこちらの別世界で、自分自身に出会う。姿かたちはそっくりなのに、別の人格を持った自分だ。
何よりも印象に残るのは、彼らが抱える寂しさだった。
それと、寂しいアルビーを巡る大人たちの寂しさだった。
もうひとりのアルビーたちに接触しながら、アルビー自身は、自分や自分の周囲の大人たちを見つめ直すことになる。
一つ一つの出会いが、まるで悲しみを乗り越えていくための、着実な一歩一歩のようだった。


わたしの心に残るのは、二人のアルビーのダンス。
この本の中に出てきた「量子のもつれ」という現象が、蘇ってくる。
「ふたつの量子を、それぞれ宇宙の果てに置いたとしても、量子同士はつながりつづける。もしもかたほうの量子が回転していることを確認すれば、もういっぽうの量子もまったく同じ回転をしている・・・」
遠く離れた別々の世界で、二つの量子がともに踊っている様子が、目に浮かぶ。
これはロマンではないか?
私には苦手だというイメージしかなかった科学の世界は、きっと私が考えているより遥かに美しく豊かな世界なのだろう。