『くもりときどき晴レル』 岩瀬成子

くもりときどき晴レル

くもりときどき晴レル


小学生から中学生までの子どもたちの、ある一時を集めた作品集。
一見なにごともなさそうにみえるけれど、あちらでもこちらでも繊細な物語が始まり、静かに展開している。
物語の先には、何か劇的なことが起こるふうには見えない。ただ、珠玉の瞬間がこの後にも、きっと連なっているだろう。あの子にも、この子にも・・・。
そうして、いつか大人になる。


『アスパラ』 
決して泣かない従弟アスパラの笑顔の意味を、わかりすぎるほどわかっている「わたし」
それなのに、自分は彼のお姉さんになってやりたい、とか、守る、とか、そんなふうにしか対応できないもどかしさ。
きっと、もっともっとたくさんの、言葉にならない言葉が、「わたし」の言葉の中に埋もれている。
アスパラの笑顔の中に「アスパラのぜんぶの気持ちが入っている」とわかってしまう「わたし」だから。


『恋じゃなくても』
中学生になった「ぼく」は義父をもう「おとうさん」とは呼べない。
家族ひとりひとりはよい人だなのだ。
でも・・・
家族が仲よくしていれば安心しているらしい母。
「そういう気持ちはわからないでもないけど」といってしまうことで「全然わかっていない」ことを露呈してしまう母。
いちいちドキッとする。
母親のごまかし(とりわけ親が親自身をごまかしている姿)は、気がつけばイライラする。
でも、「ぼく」は、ほんとは母親をわかっている。
なんとか壊れないように、今度こそ壊さないように、そうっとそうっと扱っている精一杯の今なのだ、ということがわかっている。
クラスメイトの桃井さんが学校を休むようになったきっかけの話からは、ジェイ・アッシャー『13の理由』を思い出す。(「誰も悪くない」けれど、「みんなちょっとだけ卑怯」)


『背中』
栗原さんはずるい、嫌らしいな。嫌らしいけど、そのようにしかできない不器用な子だ。
彼女をめぐる二人の男の子の心模様がなんと繊細に描かれていることだろう。ちょっとだけ派手に行動することで、彼らの心が別の方面に動いていることを明かしている。
三人とも、本当に不器用で、未熟で、かわいくて、初々しくて、ハラハラさせられる。


ちょっとしたことだけれど、「あ、それ、知ってる」「それ、私だった」と思うような小さなリアルが、この本の中にはちりばめられている。
たとえば、『梅の道』で、「わたし」が「あーあ。見ちゃった」と思うとき。
それを、「学校の廊下を歩いていて、ぐうぜん先生がトイレに入っていくのを見た時みたいな」とたとえている。
ああ、なんてこと。それ、わかるよ。
どうってことないけれど、「わかる」と思うそういうことは、ずっと忘れていたことだ。
でもそうだった、子どものとき、そういうことあったよね、感じたことあったね。
ささやかな出来事で、表現しようもないし、そんなこといちいち言うのも変な感じだし。そんなだから、大人になるまでにすっかり忘れてしまっていた。
この本のなかのそういうものたちの重なりが、ひとりひとりをリアルに浮かび上がらせる。
これは、私の知っている子、もしかしたら(状況さえ整えば)私だったかもしれない子(と、その周辺にいる、大人になった私)の物語なのだ。