『しろばんば』 井上靖

しろばんば (新潮文庫)

しろばんば (新潮文庫)


夕方、ふわふわと浮遊する白い虫を、村の子どもたちは「しろばんばしろばんば」と叫びながら追いかけて遊んでいたそうだ。暗くなるまで。
仄明るいような、もの悲しいような、懐かしいような、この光景は、この本を読み終えるまで、ずっと胸を離れなかった。


伊豆、天城山麓の農村での耕作の子ども時代である。
ばあちゃん子で、ひ弱な耕作だったけれど、そのせいで浮いたりいじめられたりすることはなかった。
子どもたちの遊びの集団のなかでは、ときにはガキ大将のような存在になったりもした。


小さな田舎町で、大人たちの職場は、ほとんど自宅やその周辺だった。
親たちは忙しく立ち働き、日がな遊び歩く子どもらに干渉することはなかったけれど、いつもどこかに大人のそれとなくの見守りがあったのだ。


耕作が「ばあちゃ」と呼ぶおぬいばあさんは、じつは曾祖父の妾だ。
母(曾祖父の本妻の孫)七恵が耕作の妹を出産するにあたって、耕作をおぬいばあさんに預けたのを機に、そのままばあさんは耕作を自分のもとに引き留めてしまった。
実の祖母(母の母)のいる上の家(本家)の伯母たちは、耕作には兄姉のようだ。
ややこしい親族の系図を思い描くとこんがらかってますますややこしいことになるけれど、子だくさんのその昔(大正時代)の日本ではさほど珍しいことではなかったのかもしれない。
おぬいばあさんと耕作についても、関係だけを取りざたすれば、面妖な感じだけれど、村を上げての弱い者たち(年寄りなど)への見守りの形でもあったか、と思う。
農村はややこしい、煩わしい。そして、温かい。


お気に入りの登場人物は、なんといってもおぬいばあさんだ。
たとえば、帰りが遅いのを心配していた耕作が帰ってきたときに、一緒に探してくれた近所の人に礼にいき、こういう。
「耕ちゃは居ましたぞ。心配かけてすまなんだ。お前んとこの惣領とは違って、耕ちゃが居なくなったとなると大事だでな」
おぬいばあさんは自分の言っていることがおかしいとは全く思っていない、皮肉がひとかけらも混ざっていないところがすごいのである。
この強烈な偏愛&溺愛ぶり。
ばあちゃを心から慕い、心から疎ましく思い、そして、本気で心配しながら、耕作は育っていくのだ。
気が強くて強情なおぬいばあさんの言動に苦笑しつつ読んでいたが、やがて、彼女は体が二つに折れるほど腰が曲り、どんどん小さくなっていく。
ただただ一途に愛して愛して、守って守っての(でも本当はとても寂しい)彼女の一生が愛おしくてたまらない。



耕作は、遊び仲間や濃い大人たちに揉まれながら、成長する。
大切なものを折々に失いながら、六年生になる。
小学校を出ればほとんどの子が社会に出るのが当たり前の時代だった。
他の追随を許さないほどの秀才と名高かった上級生・平一は、町に出て(おそらく)労務者か丁稚になった。
一度だけ耕作から主席の座を奪った同級生、公一少年はその後どうなったのだろう。
「この村にいたらせいぜい村長どまりだ。おれは村を捨てる。いつか小僧を五、六人使うようになるんだ」と夢を語るのはいつも耕作とつるんでいたガキ大将の幸夫だった。
幼い時から進学を約束されていた耕作は、ひどく不公平だ、と感じる。そういうことを感じるほどに、彼も大きくなっていた。
いよいよ中学受験が近づき、やがて父のいる浜松に発つため、この村を去るのだ。
大きくなった耕作の目で、嘗ての遊び仲間たちを見直せば、みんないつの間にか大人の入り口に立っている。
いつのまにか、村のいっぱしの働き手になり始めている。
私たちの祖父母、曾祖父母たちの若い日の姿だ。