『私の名前はルーシー・バートン』 エリザベス・ストラウト

私の名前はルーシー・バートン

私の名前はルーシー・バートン


ルーシー・バートンは、昔(最初の夫と結婚していた時。二人の娘がまだまだ本当に小さかったとき)、九週間に及ぶ入院をした。
自分の体が心もとなく、この先どうなっていくのかわからない不安がのしかかる。留守宅の小さな娘たちのことを心配し、会えない辛さを耐える日々。
この時、イリノイ州の小さな町からニューヨークの病院へ、母がやってきて、五日間ルーシーに付き添った。
飛行機になど乗ったこともない、それどころか田舎の町を出た事さえないだろう母。ルーシーの結婚以来(事情もあり)すっかり疎遠になってしまっていたのに。
母と過ごす五日間は、特別なことがあったわけではない。徒然に語る話は、昔の知り合いや親戚たちの近況。
ゴシップと言えそうな話だが、そうとは言えない一線を守っているように思う。
むしろ、まるで寝しなに聞かされるおとぎ話のようにさえ感じられる。「むかしむかし、あるところに」で始まるおとぎ話のように。
人生のエアポケットのような時間に起こったことだから、そう感じるのだろうか。


母と過ごす時間の隙間に、ルーシーの人生(幼い頃のこと、結婚生活のこと、それからこの入院のあとの長い人生のことなども)や、周りの人びとによせるルーシーの思いなどが、回想の形で小出しに挟まれる。
子ども時代の、畑のトウモロコシが育つ音が聞こえてしまうほどの寂しさが心に残る。
彼女の周囲を彩るのは戦争とそのトラウマに苦しむ人々。それからエイズ、などだ。
良いこともあれば悔やむこともあったけれど、自分の力ではどうしようもないことが、多かった。


細かく見ていったら心に残る場面はあれもこれもいっぱいあるような。そこまで印象的な場面はなかったような。
でも、何よりも言いたいのは、人生のなかのある本当に短い時間の輝き(当事者以外にはわからない)が、その人の人生の前にも後にも、大きな美しい傘のように広がって、すっぽりと覆うようなことがあるのだ、ということ。
そのわずかな時間が存在するかしないかで、自分の人生の俯瞰図はまるで違ったものになる、ということ。