『浮浪児1945−』 石井光太

浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち

浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち


振り返ればそこは火の壁だった。火の海、火の渦の中に、人間が巻き込まれて宙をぐるっとまわっているのをみたそうだ。
町全部が火葬場の釜の中と同じだったそうだ。
母や幼い弟妹と逃げていたのに、気がついたら、たった一人になっていた・・・子どもが体験した東京大空襲の描写だ。
それから、生き延びた子どもの、浮浪児と呼ばれる日々が始まる。


上野の地下にはたくさんの浮浪者が集まっていた。
子どもたちも、さまよい、人に教えられしながら、ここにたどり着いた。
食べ物を漁ったり、恵まれたり、大人の情けにすがったり、利用されたりしながら、生き延びようとした。
大勢の子どもが餓死・凍死し、自ら命を絶った。
孤児院に収容された子は、路上の子よりましだったか、といえば、孤児院にもよる。
孤児院とは名ばかり、牢獄のような場所も多かった。鉄格子のはまった窓。死体のとなりに寝かされたこともあった。ほとんど食べさせてもらえずに働かされ、暴行され、大けがをしたあげくに放置されたりもした。
どこもかしこも食糧難、資金不足、(働く)人不足だった。そして、孤児はあふれていた。


日本は、浮浪児という名前のもとに子どもたちを棄てたのだ。町の中に。施設の中に。
浮浪児だったころを振り返って、思い出を語ってくれた人たちは、この地獄を生き延びた人たちだ。
ある人がいう。
「…昔の子は強かったっていいますけど、そんなことに耐えらえる子なんてごくわずかなんです」
耐えられないたくさんの子どもたちが、街頭で、施設で、様々な形で命を失ったのだ。生まれも名も知られず、ただ「浮浪児」として、まるで紙屑のように街路や溝に倒れて。


この地獄を生き延びたとしても、もと浮浪児、という言葉が、ずっとついてまわり、差別を受けたそうだ。
それだから、海外に移住する人たちもいた。施設の職員の働きかけ、あるいは個人で密航したりして、アメリカやカナダに渡る。
著者はいう。
「いくら戦争で家族を失ったからといって、子供たちにしてみれば日本は生まれ育った母国だ。その国を棄てるようにして、聞いたことすらないような外国の地へ旅立たなければならなかったときの寂しさはいかばかりだっただろうか」
海外にも当然、差別はある。それでも、日本で「元浮浪児」として生きるよりは、故国を棄てて、海外で差別を受けながら生きる方が、まだ生きやすかった、ということに、ものすごく悲しい気持ちになる。
元浮浪児の
「日本では、同じ日本人から差別を受けることになる。元浮浪児だというだけで信用してもらえず、馬鹿にされつづける。同じ日本人なのに、その日本人から差別されるほどつらいことはない」
という言葉が突き刺さるのだ。


もう一つ、忘れられないのが、東京大空襲の時に、それ以前の記憶を失ってしまった人のことだ。当時身につけていた物についていた名札の名前で生きてきたけれど、その名が自分のものかどうか本当はわからないのだそうだ。
七十年、自分が何者かわからないことに苦しみ、そのために他者との関係をうまく築けずに生きてきた人の心の中にある計り知れない空洞をどうして推し量ることができるだろう。


石綿さたよが始めた施設「愛児の家」(一時は百人を超える子どもたちがいた。多くの卒業生が、さたよを「ママ」と慕い、卒業後も実家のように思っていた)を引き継いで、80歳の今も現役で働くさたよの三女・裕さんの
「家庭の愛情じゃなくたっていいんです。友人や見知らぬ人からでもいいから、子供時代に多くの愛情をきちんと受けてきた記憶があるということが大事なんですよ」という言葉が心に残る。
「本当にいい子たちでしたね」


浮浪児と呼ばれた人たちは、私たちの父や母になり、祖父や祖母になり、私たちの暮らしを築いてきた。
じぶんたちを見捨てた国の街路で、ともに暮らした友の死を悼み、生き抜いてきた人たちなのだ。