『わたしがいどんだ戦い 1939年』 キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー

わたしがいどんだ戦い 1939年

わたしがいどんだ戦い 1939年


11歳のエイダ(当時、自分の歳さえも知らなかったのだが)の右足は先天性の内反足で、歩くことができない。
生まれてすぐに治療すれば、たいていはよくなるのだそうだ。けれども、彼女の母親は、彼女を一間きりのアパートに閉じ込めた。
しつけも教育も受けたことがなく、身体を清潔にすることさえも知らなかった。移動の手段は、部屋の中を這うこと。
アパートの窓からは草木が見えなかったから、彼女は草というものがなんなのかも知らなかったし、秋の紅葉も知らなかった。
ある日、弟のジェイミーが、「ロンドンは爆撃を受けるから子どもはみんな、安全な田舎に疎開することになった」と聞いてきた。
「わたしはどうするの?」と尋ねるエイダに、母親は言う。
「この部屋から動かずにいるのさ。爆撃があろうと、なかろうと」
…それで、エイダはジェイミーといっしょに逃げ出したのだ。彼女はこっそり立って歩く練習をしていたのだ。


原題は“The WarThat Saved My Life”「私の命を救った戦争」だ。
人生を奪いとる戦争が、まさか虐待されている子どもを解放することになるとは、なんという皮肉だろう。
子どもたちが受けていた虐待は、戦争以上に酷いものだった、ということか。


エイダとジェイミーを預かったスーザンは、大切な人を失い、自分の面倒さえ見られない状態だったが、子どもたちの世話をするうちに、変わっていく。
けれども、それで一足飛びに「よかったね」にならないことと思い知らされる。
遠くにいる母を思い、「〜したら、母は私に笑いかけてくれるだろうか、やさしくしてくれるだろうか」と考えるエイダが不憫でならない。
同時に、自分がだれかに愛されるわけがない(ずっと母親にそう言われ続けていた)と思い込み、スーザンの愛情をまっすぐ信じることができない。
スーザンとは近い将来離れなければならないとの思いから、彼女に思いを寄せることも、必要以上の庇護を受けることも拒否する。
閉じ込められていた頃の記憶が不意によみがえり、そのたびにパニックを起こす。
彼女を思う友人たち(魅力的な村の人々!)に囲まれて、いまや自由も、愛情も得たのに、彼女の一部は、ずっと閉じ込められたままでいるのだ。


普通の時代ではなかった。
村の子も疎開児童も、否応なく、戦争にまきこまれていく。
イギリスがナチスと戦うさなか、エイダは、自分自身を解放するためにも戦っていた。
エイダとジェイミーが心寄せる動物たちも魅力的だった。
ポニーのバター、猫のボリブル。無条件に子どもたちに寄り添う彼らはなんて大きくて素晴らしい存在だっただろう。



ミシェル・マゴリアン『おやすみなさい、トムさん』にちょっと似ていると思いましたが、こちらの物語では、エイダに手を貸す(?)人たち・動物はあくまでも脇役で、エイダ自身が自分の力で自分の人生を勝ち取る物語でした。タイトルどおり、まさに『わたしがいどんだ戦い』