『カーネーション』 いとうみく

カーネーション (くもんの児童文学)

カーネーション (くもんの児童文学)


子を授ることは、限りない歓び。わが子は、ただただ愛おしい存在。
それは、改めて言うことが恥ずかしくなるほどに、当り前のことだ、と思ってしまいがちだ。
それだから、もしも、そうではないこともあるのだということを知ったら、
それが我が身に起こっていることに気がついてしまったら、それを認めるのは、どんなに恐ろしいことだろう、と思う。
日和の母・愛子の立場に、自分が立ったら・・・愛子のパート(日和、愛子、慎弥、それぞれのパートから、この物語は成っています)の、一言ひとことがひしひしと身にせまって怖ろしかった。
わが子(愛子には長女・日和だけれど)を嫌悪しながら、嫌悪する自分自身をも嫌悪する。
愛子が生まれたばかりの次女を初めて抱いたときの喜び、そして次女を溺愛しないではいられない理由も、分かるような気がする。
自分は子を愛することのできる母であることに、どんなにほっとしたことだろう。その気持ちにどんなにすがりつきたかったことだろう。


父・慎弥の立場にいる自分も考えてみる。
「お父さんはいつだってそう。きれいなところしか見ようとしない。見たくないところは見えないふりをして。ひとりだけずるい」
どうっとあふれ出したような日和の言葉に、ただ頷く。この父はずるい。
でも、この「ずるい」の奥行きを、物語は丁寧に描きだす。そして、わたしが慎弥だったら、と考えずにはいられなくなる。
自分の連れ合いが、わが子を嫌っていることを知ってしまったら(苦しみつつ一生懸命親の務めを果たそうとしている姿を見たなら)私だったら、どうするだろう。
自分の一番大切なものが、ちょっとでも触れたら崩れてしまうようなものであると気づいたら。
慎弥を責めることなんて、わたしにはできない・・・


慎弥も愛子も悪い人ではない。このままではいけない、ということも知っているが、動けない。それぞれが苦しんでいる。
読めば読むほどに、歯がゆくてたまらないし、この夫婦が、気の毒でならない。
でも、そうであればあるほど、その父母のもとにいる子どもはますます救われない。
どんなに拒絶されても、ひたすらに母に愛されたい日和が、いじらしくてたまらない。


母が子を憎む、確固とした理由があるなら、
父が、本当に身勝手で要領だけで生きているような人であるなら、
あるいは、これを、すっぱりと、虐待、と断言できるなら・・・
そうしたら、こんがらがった糸のこんがらがった形が見えるのかもしれない。
見えれば、こんがらがりをほどくための糸口をさがすことができるかもしれない。
最悪、こんがらがったところをチョキチョキと切って、ばらばらにすることも可能かもしれない。
でも、この家族は、そういうふうではない・・・


静かな文章は、静かなだけに、鬼気迫るような迫力がある。
ただ、日和の押し殺すような呟きが、胸を刺す。
「きついよ、きらわれるって」


最後まで、解決の道筋は見えない。
でも、ふわっと気持ちが軽くなるのだ。それはなぜだろう。
夫婦が、相手の傷口にさわらないように(まるで腫物のように)しながら自分の中にため込んできた怖れを、今は、共有できるようになったからだ、と思う。
日和の「あたしは幸せになる」と言う決意に、胸がいっぱいになる。
これは、本来ならあびるほとに注がれるはずの、でも与えられなかった愛情を吹っ切ることができたから生まれた言葉だ、と思うから。


人に関わることで、すっぱりと解決できる問題なんて、本当は少ないと思う。簡単にハッピーエンドは訪れない。
それでも、「幸せになる」という言葉は、今を生きていくたくさんの日和たちへの贐のようだ。