『プラテーロとわたし』 J.R.ヒメネス

プラテーロとわたし

プラテーロとわたし


『プラテーロとわたし』は、小学生のころ、お世話になった先生にいただいた本でした。(岩波文庫版『プラテーロとわたし』(長南実訳)の感想にも、以前書きました)
でも、小学生だった頃には、この本の良さがちっともわからなくて、本箱に置いて、そのまま忘れてしまいました。何年もたってからふと手にしたのがきっかけで、その後、繰り返し読む、大切な宝ものになったのでした。
(長く品切れだったこの本が、2011年の夏、復刊されました。この本が再び書店の棚に並ぶようになったのはとてもうれしいことです。)


プラテーロは、ふわふわの毛のロバ。お月さまの銀の色をしている。
村の人たちは「はがねのようだね・・・」という。


詩人は、「プラテーロ・・・」と語りかける。
呼べば、鈴の音にも似た足取りで、かけよってくる。
ときどきへそをまげる。ふてくされたようにのろのろ歩く。
プラテーロの存在のすべてが、どこかはるかなところからやってくる、詩人への(自分への)穏やかで明るい共感のようだ。


>それはありふれた風景である。しかし、そのひとときはその風景を、なんとも不思議な、いまにも崩れそうで、しかも永遠に忘れられないものに一変してしまう。そのひととき、私たちは、住む人のいない宮殿に、そっと踏み入って行くような思いがする……
夕景によせた言葉だけれど、この詩集そのものが、そういうものなのだ、と思う。
詩人が「プラテーロ」と呼びかけるとき、「ありふれた風景」は、確かに別のものに変わる。
詩人がプラテーロに語る「ありふれた風景」とは、こんなことだ。
春夏秋冬、一日のあらゆる時間、さまざまな天候のなかで、一刻一刻、田舎町の景色がうつり変わっていくさま。
この町に住む人々のこと。
季節ごとの祭りや行事のこと。普段と異なる一日に湧きたつ人々の印象は、まるで子どもの目で見ているかのように描きだされる。
詩人が子どもたちとたわむれる喜ばしい時間のこと。
とりわけ詩人と仲がよいのは、子どもたち、なのだ。それも、大人から半端なみそっかすのように扱われる子どもたち。
障がいや病気を持った子どもたち、貧しい人たち。だれからも顧みられないような人たちに心を寄せる。
小鳥や草花、動物たちのこと。あるときは剽軽に、あるときは、リアルな写実に徹して。
乱暴に扱われて壊れた道具のように死なされていく動物たちについての詩は、とりわけ印象に残る。


遠くから、夕方の鐘の音が聞こえる。
黒ずくめの服装で、ナザレ人のようなひげを生やした詩人が、灰色のロバに乗っていく。
その姿をはやし立てる、こどもたちの声「きちがーい。きちがーい」は、田舎道に響く心地よい音楽みたいだ。