『レイミー・ナイチンゲール』 ケイト・ディカミロ

レイミー・ナイチンゲール

レイミー・ナイチンゲール


『明るく輝かしい道のり――フローレンス・ナイチンゲールの一生』という本は、図書館司書の先生が「夏休みに読んでごらん」とレイミーに勧めてくれたのだ。
この本が、三人の女の子の間を行き来するが、レイミーを始めとして、だれもこの本を読んでいない。フローレンス・ナイチンゲールがどういう人であるかも知らない。
この本から生まれるのは、でたらめなお話だったりする。
でも、この本は、なんだか頼りになるのだ。お守りみたいに。
そういう本の読まれ方(?)もあっていいのだと思った。


三人の女の子は、レイミー、ベバリー、ルイジアナ
レイミーのお父さんは、ある日、女の人と駆け落ちしていなくなってしまい、レイミーは今、お母さんと二人で暮らしている。
べバリーの両親は離婚し、彼女も、お母さんと二人きりで暮らしている。
ルイジアナは両親を亡くし、盗みで生計を立てるおばあちゃんと暮らしている。
三人ともそれぞれ傷ついていて、現状を打破するために何かをしようとしている。
その何か、ときたら、突発的に見えるし、時々(いや、大抵)道義的にも、法的(?)にも、まずいことばかり。
でも、あえて、その言葉を呑み込む。彼らは、いつも大真面目。そして、とてもパワフルだ。
魔法は一つも起こらないけれど、彼女たちがここにいることに、何か魔力がはたらいているように思えてくる。
たとえば、猛烈なスピードで疾走するボロボロの(ドアさえ閉まらない)車の中でわらっていること。
たとえば、真夜中の坂道を三人でカートを押して進んでいくこと。
ルイジアナは、自分たちのことを「三勇士」と呼んだけれど、私は三人の若い魔女たちと呼びたい。


なんだか、大きな風船がふうううっと膨らんで(少し萎んでまた膨らんで)やがて、大空にそのまま飛び上がりそうな感じだ。
それは、なにがまちがっていたとしても、それを問題にするのは、とっても小さなことで、いっそ、うっちゃっちゃいなよ、と自分で自分に言ってやる。


少女たちは、ほんとうは「取り戻したい」と一途に思っていたのだ。
不覚にも失った大切なものは(それが大切であればあるほど)大抵取り戻せないものなのだ、と、大人ならわかる。
でも、わかってどうするのだろう。少女たちの周りの大人たちの萎れっぱなし具合を思うと、ため息がでる。
どんな形であれ、なんとかしようとじたばたする少女たちを応援したくなるのは、できるものなら、あのときにもこのときにも、そんなふうに行動したい、してみたかった、と思うからだ。


大人たちを飛び越えていく(であろう)娘たちを祝福したい。
遠く遠く飛んで行きなさいね。