『ちいさな国で』 ガエル・ファイユ

ちいさな国で

ちいさな国で


フランス人の父と、ツチ族ルワンダ難民の母をもつギャビーは、ブルンジの首都ブジュンブラで育った。
内乱の中、中学生だった彼は、フランスのホストファミリーに預けられる。
今はフランスにいるが、住んでいるとはいえない。ただ通り過ぎるだけ。
世間の人が「彼らは地獄から理想郷目指して逃げてきた」と考えるなら、そんな考えはまとはずれもいいところだ!と、彼は言う。


激しく憎み合うツチ族フツ族の衝突が、内乱(市民同士のリンチ、虐殺)へと発展していく。
人と人が憎み合い殺し合い、人が人でなくなっていくその過程が、少年のギャビーの眼を通して、丹念に描かれていく。
子どもさえ子どもでいられなくなる。破壊とリンチと殺人の渦に、否応なく巻き込まれていく。
自分はツチでもない、フツでもない、と言っていたギャビーでさえ(本の世界に逃げ込んでいたギャビーでさえ)引きずり出され、憎しみの真っ只中に放り込まれていく。


ブルンジはちいさくて美しい国だ。ギャビーが思いだす景色は輝いている。
ブジュンブラの袋道を裸足で駆け回った子ども時代。
空き地に打ち捨てられたぼろのフォルクスワーゲン・コンビが仲間たちの集まる場所。
おしゃべりし、からかいあい、ときには隠れてたばこを吸った。
川に潜った。よその庭の木からマンゴーを盗んだ。
冷えていく父と母の関係を不安に感じ、父の支配的・差別的な言葉にひっかかり、それでも、彼はまずまず幸せだった。
「甘やかされたガキだな」と、時にはその世間知らずぶりが鼻持ちならなかったりもするけれど、エネルギーに満ちた子どもらしい子どもだった。


ギャビーと仲間たちには、ライバル視する少年がいて、いがみあっていた。
彼、フランシスのことを振り返り、ギャビーはこう書く。
「どんなに頭をひねっても、ぼくらの物の見方が変わってしまったのがいつなのか、わからない。一方にぼくらがいて、もういっぽうに敵が――フランシスのような敵がいると考えるようになってしまったのがいつなのか、わからない。(中略)
ぼくはいまでも自問している。仲間とぼくはいったいいつ、恐怖を抱き始めたのだろう。」
子ども時代の(ほぼ罪のない)小競り合いと思って読んでいたが、ギャビーの回想を読んで、はっとする。
相手への恐怖から、敵が生まれるのだ、ということに。
物心つかないくらい幼い日に、なぜか、ほかの誰かへの恐怖の種が心の中に忍び込む。チャンスを掴み、芽を出し、育ち始める。
心の中の小さな種は、怪物みたいに膨れ上がり、やがて、その人をのみこんでしまうように思えた。


祖国をたつギャビーに、いつも本を貸してくれた老婦人が贐に贈った言葉は、
「・・・大切な秘密の庭を丹精して手入れするんですよ。本を読み、人と出会い、恋をして豊かになるんですよ」
美しい言葉だ。でも、このちいさな国の外でなら。
今、この美しい言葉から、どんなに遠いところに来てしまったことか。

>ぼくはあの国を発ったわけではなく、逃げ出した。ドアを開けっぱなしにして逃げ去った。振り返らずに。覚えているのは振られている小さな手だけだ。

この作品は、フィクションである。
でも、作者の体験をベースにして書かれた作品である。