『はしっこに、馬といる』 河田桟

はしっこに、馬といる ウマと話そう?

はしっこに、馬といる ウマと話そう?


「カディと暮らしはじめて、5年が経ちました。」
著者は、与那国島で、与那国馬のカディと暮らしている。


著者は、自分が(ウマと暮らすには)非力である、と何度も書いている。
それでも、ウマと暮らすことはできる。著者とカディは、「うかうか」した関わり方をして、暮らしている。
「うかうか」できるのは、与那国島という環境のせいかもしれない。
与那国島では、ヒトに養われている生き物と、野生の生き物との境界があいまいな気がします」と著者はいう。
それを「すきまのある感じ」と呼び、すきまは、あらゆるものごとに通じている、と書いている。
「『すきま』があるっていいものだなあ」と著者はいう。そして、読んでいるわたしも「いいなあ」と思う。
「すきま」のある環境で、「すきま」のある暮らし方、付き合い方をしていると、思いがけないものを発見したり、思いがけない道が開けたりすることもあるみたい。
そういうことを期待しないでいることも、きっと「すきま」なのだろう。だから、思いがけないことに出会うと、思いがけないことはかけがえがないことに変わるのかもしれない。


>カディにはウマの世界があり、そのウマの世界は野生につながり、それがもっとおおきな「なにか」につながっています。
カディとわたしをつないでいるのはぼんやりとした糸のようなもの。それは波打ち際みたいにいつも動きつづけています。
>うまく言えないけれど、わたしは、ウマとヒトの関係においても、自分が「中心」にいないほう、関係がゆらいでいたほうが心地いい、と感じます。
それは、きっとウマとヒトの関係だけではない。他の動物とも、ヒトとヒトとの関係でも・・・
「こうしなければだめになるんじゃないか」とか「ちょっとしんどいな」と思うようなあれこれの境界を少しずつずらしたり、ちょっとだけ曖昧にしたり、そんなことができたらいいな。
「心地いい」「すきま」は、本当は、見出すことも、維持することも、口で言うほど簡単じゃないのかもしれないけれど。
カディと著者みたいに、少しずつ、大切な人や動物と、自分たちの身の丈にあった、いい具合の「すきま」を育んでいけたらいいなあ、と思うのだ。


ページのあいだ、文章と文章のあいだに、ウマが遊んでいる。
余分な線を排除した、シンプルな線画のウマたちは、どこか剽軽で、のんびりしている。
そして、この馬に注がれる著者のやわらかい眼差しが、ちゃんと見えているから、絵の中で深呼吸したくなる。
絵には「すきま」がある。絵と文章のあいだにも、「すきま」がある。
この本の「すきま」から、与那国島のよい風が吹いてくる。気もちいいな。