『八月の光 失われた声に耳をすませて』 朽木祥


2012年の『八月の光』は短編三篇。2015年にはこれに二編が加えられて『八月の光・あとかた』として五編、そして、2017年の今、新たな物語を二つ加えて計七編のヒロシマの物語が『八月の光 失われた声に耳をすませて』として、刊行されました。
ヒロシマのむごい物語だけれど、この作品集は、りんと美しいのです。
どんな時代、どんな瞬間にも、もしも、これを手放さずにいられたら――と思う、そういう美しさ。

一瞬で七万人もの命を奪った原爆。広島の原爆供養塔に納められた原爆死没者の遺骨のうち、八百人余りの人々については、名前しか判明していないのだそうだ。(「あとがき」による)

>名前だけでしかない人があり、名前すら残らなかった人があります。(中略)ヒロシマの物語を書くということは、あるいは読むということも、そのような人びとの「失われた声」に耳をすませることなのだと私は考えています。


一瞬で、町は地獄に変わってしまった。
「むごたらしく焼かれて幽鬼のような姿に変わり果てた人々」が次々、町から逃げてくる。
この行列は、七つの物語すべてに現れる。七つの物語をまたいで、音もなく行進していく。
名前でしかない人・名前すら残らなかった人たちの行列かもしれない。


この地獄に生き残った人たちも、亡くなった人を思い、自分が生き残っ(てしまっ)た事を深く悔やみ、苦しみ続ける。このうえなくひどい仕打ちを受けた犠牲者のはずなのに。
「ひとりだけ助かった後ろめたさが、真知子にも家族にもあったのだ」(雛の顔』)
「いっそ、自分も父や級友たちと一緒に、あとかたもなく消えてしまえばよかった。」(『三つ目の橋』)
意味のない死を死なされた人々がいて、意味のない苦しみの生を生かされた人々がいる。


…一発の爆弾のすさまじい暴力です。その暴力がどれほど人間を貶め、苦しめ、最後には人でさえ失くしてしまったか、ということです。生き延びた人たちも――身体が生き残った人たちも――ほんとうに生き残ったとは言えない。人の形は残っていても心は死んでしまったのだということを――(後略)
(『水の緘黙』)
亡くなって名前すら残らなかった人たちがいる一方で、せっかく生きのこったのに、名前を失くしてしまった青年がいる。「生きてしまった」事へのなんと強烈で悲しい悔いだろう。
彼のことが書かれた『水の緘黙』は、ほかの作品と少し違う、と感じる。
これは、なくした名前を取り戻す物語だから。
無意味に思える悔いに生きる人たちの生を無意味なままにしないための、
無意味な死を死んでいった人たちの死を無意味なままにしないための物語、と思う。
この物語は、きっと七編の短編の中を生きた人、死んだ人、いまだ行方の分からない人たちに、寄り添っている。


「あとがき」の中で、作者は書く。
「核の脅威は日に日に高まっているのに、あの朝ヒロシマで起きたことがすっかり忘れ去られてしまったのではないかと感じることがよくあります」
「自戒を込めて言うのですが、過去にすべきことをしてこなかったという悔いに心をかまれるような思いがしたのです」
本当に悔いるべきは、聞く耳を持たなかったものなのに。
…私は、耳をふさいでここまできてしまった。きくことのできる言葉だったのに。
ふわふわしたものばかりを追いかけ、恐ろしいものや不安なものに背を向けてきた。
見ないようにしてきたものにいきなり肩をつかまれそうな今、何ができるだろうか。
『八重ねえちゃん』の「素朴だけれど正直な人が、聞こえないふりや見ないふりをしない人がもしももっとたくさんいたなら、空まで泣くような、あんなむごいことは起こらずにすんだのか」と「帰ってきてほしい」とが、合わさって耳に残る。


炎の中を、銀杏の形の鶴たちが羽ばたき、あでやかに舞い上がる。
七十年、草も木も生えないと言われたいたヒロシマなのに、その翌年に、赤いカンナの花が咲く。
町を地獄に変えた原爆の強烈な炎の眩しさよりも、ずっと鮮やかに力強く胸に根をおろす。