『ちいさい言語学者の冒険 ―子どもに学ぶことばの秘密』 広瀬友紀

ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 (岩波科学ライブラリー)

ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密 (岩波科学ライブラリー)


>私たちは小さいころにいつの間にか、日本語をいとも自然に身につけ、大人になった今は、立派に使いこなしています。ですが、自分がいったいどのようにことばを身に着けてきたのか、今になって振り返っても、その過程を思い出すことは残念ながらほとんどできません。
日本語は自分のからだの一部みたいなもので、疑問にさえ思わずにいたけれど…そういえば、どんなふうにして身につけたのでしょう。
教えてくれるのは、主に子どもたち。
それも、著者や知人たちの子どもたちのナマの言葉が先生なのだから、「どうして?」よりも、まず、その発話のかわいらしさに、何度も笑ってしまった。


ひらがなを覚え始めた子どもに「か」や「さ」に点々をつけたらなんと読むと思う?と尋ねると、わりとすんなり「が」「ざ」と答えるのに、「は」に点々をつけた読み方は答えられないそうだ。

>歴史的な音の変化により、ある言語の中にその言語特有の不規則な部分が生じてしまうことは珍しくありません。
歴史の中で少しずつ変化してきた日本語。発音・読み方などが変わってきたのに、その表記方法や文法などは、元のままに近い形で残ってしまうこともある。
私たちは、違和感もなく、ことばを使っているけれど、日本語に関わり始めたばかりの子どもは、不自然に感じる言葉に素直に反応する。
「さ」→「ざ」、「か」→「が」は納得できるのに、「は」→「ば」が納得できないのはそういうことのあらわれだった。
そうした子どもたちも、やがて、不自然さに慣れて、現在の日本語を身につけていくなら、その成長の過程は、日本語の変化の歴史のお浚いのように思えてくる。


子どもは誰にも文法を教わらないのに、全力で言葉の規則をみつけていく。
そこには、過程があり、多くの子どもが通っていく道筋があるようだ。
その例として挙げられる実在の子どものナマの言葉が、楽しくて。
「わんわん」と言ったら、生きて動いているもの全般だったり、
「くすぐったい」を「はずかしい」、「面倒くさい」を「ややこしい」と言ったり。
大人とお店屋さんごっこをしていて、「これ、なんぼですか」との問いかけに「1ぼ」と答える五歳児。
「ぬいぐるみの犬」と区別して「生きている本物の犬」という意味で、「にんげんのいぬ」と言う二歳児。
これら、可愛くて、不可思議な言葉の使い方は、子どもたちが、言葉のきまりをみつけるための試行錯誤途上の形だ。


>大人になった今では忘れてしまいましたが、かつて私たちはことばを覚える過程で頭のなかでこうしたさまざまな推論や試行錯誤、柔軟な微調整を行っていたはずです。
一つの言語を身につけていく、ということは、確かに大冒険だなあ、と感じている。
いま、ことばを何も不自由なく(学校時代の文法の成績は置いておき)使いこなしている私だって、無我夢中で冒険して、ここまできたわけか、と思うとなんだかしみじみしてしまう。
そして、それ以上に、日本語(言語)そのものが、長い時間をかけて、しなやかに変化してきた(いく)冒険者と思えてくる。