『キス』 キャスリン・ハリスン

キス (新潮クレスト・ブックス)

キス (新潮クレスト・ブックス)


生まれてすぐ別れた父と、「わたし」は、二十歳の頃、「再会」する。
別れ際に父が「わたし」にしたキスは、親子のキスではなかった――
大学生の娘と父親との近親相姦。
…だけれど、静謐ともいえるほどに抑えた文章は、そんなセンセーショナルな言葉とは程遠い。官能的とも思わない。
娘は本当にこの父に恋をしていたのだろうか、と疑いたくなるほどに冷静な文章。

「わたし」は、父との間にあったことを丹念に描きながら、自身の生い立ちを遡っていく。
特異な家庭環境で育ったのだ。
私には、彼女は、彼女の家族それぞれによる(一見そうとはみえないが)虐待の犠牲者に見える。

「愛」という言葉を使いはするが、父と娘は、支配者と被支配者の関係だ。
(道ならぬ関係において、力のあるものがいう「双方の合意」という言葉を私は思い浮かべました。弱いものを「合意」に導くために、相手の弱身に巧みに訴えかけ、周到に考える力を奪っていく。その手腕を見せられたようでぞっとする)

「わたし」にとって、父との禁じられた「愛」と被支配の日々は、ずっと求め続けていた母の愛情と、どうしてもそれを与えられなかったことへの怒りの迸りのようだ。
求めてはならないものを欲し続ける自分自身を罰するための激しい苦行のようにも思える。
この恋愛に甘美なものはひとかけらもない。
この苦行から楽になる方法が、自分自身にもわからない。わかったとしても、そちらに向かうことはできない。
「わたし」の縛りをほどく鍵を握るのは、父ではなく母の存在かもしれない。(実は、父も縛られている。母も縛られている。どうしようもない。)
波のない海の真ん中で、茫洋とした闇にかこまれているみたいで、おいおいと泣きたくなる。

著者は、事実を見つめなおし、ありのままをさらけだしてすべてを清算しなければ、との思いから、この作品を書き、発表したのだという。
できれば頑丈な箱に入れて封印しておきたいような過去、と思うではないか。
けれども、この箱の中には、暗闇の中でずっと、たった一人で闘い続けてきた女の子が、きっと今もひとりきりでいる。
封印を解いて日の光のもとへ連れ出してやらなければ、彼女は、過去の暗闇の中に、ずっとひとりきりでいるだろう。
作家となった未来の「わたし」が、今、その肩をそっと抱き寄せている。そんなイメージが浮かび上がってきた。
そして、この作品が、一つの終わり(=始まり)によって閉じられることを、今はただ喜びたい。