『鹿の王 (上下)』 上橋菜穂子


作者は、「人(あるいは生物)の身体は、細菌やらウィルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場である」ということから、「それって社会にも似ているなあ」と思ったそうだ。


物語の世界を俯瞰すれば、確かに、この社会は生きもののようだ、と感じる。
人がいる。民族がある。様々な生き物がいて、必死でなんとか生き延びようとしている。
それは、まるごと一つの命のように思える。この大きな丸ごとの命は、まるごとのなかにある一番小さなそれぞれの個体の命に支えられている。


――昔、一国を滅亡させたという黒狼病が、長い年月を経て、この世界に、突然、復活する。
「病素」を持った獣に噛まれることで発症し、わずか数日で死に至る恐ろしい病気だ。
物語は、人の身体を蝕む病気の怖さと、社会という大きな身体を蝕む疑心暗鬼の怖さ、身体の病・社会の病を描きだす。


ところで、必ず死ぬ、と言われるこの病気から、奇跡的に生還したものがいる。彼は、病後、自分の身体が、今までと変わりつつあると、感じている。
それは、どういうことなのだろう。
そもそも、病とは、一体、何なのだろう。


物語を読みながら、心に残ったのは、血のつながりもない、民族も、依るものも、バラバラの人々が、身を寄せ合い、家族となっていく姿だ。
さまざまな民族が出てくる。民族全体がひっかぶらなければならない不幸もいっぱい出てくる。
それだから、この異民族の寄せ集めのような「家族」の温かさに、とりわけほっとするのだ。
この「家族」との日々の記憶が、後々までも「暖かい灯火のように、長く胸の底に輝き続ける思い出」となるだろうということにも。
そうして、ふっと思う。
この「家族」の形は、病魔に蝕まれつつ生還した人間の身体の中で起こっていることと、よく似ているんじゃないか、と。
人の体のなかでも、そして、社会でも、異質なものと元から居たものは、互いに相手を追いだそうとして、絶えず戦っているように思う。生き残る場を得るために戦う。
でも、それだけではない、別のありかたがあることを、それは、とても細くて困難な道かもしれないけれど、あるのだ、ということを、静かに示してくれた。


もうひとつ印象に残るのは、若者の「だいじょうぶっす」「おれたちはいきます」
険しい道を進もうとするその人たちの顔に悲壮感はない。むしろ朗らかだ。楽し気にさえ見える。彼らの瞳を想像し、心がふわっと躍った。