『ビリー・リンの永遠の一日』 ベン・ファウンテン

ビリー・リンの永遠の一日 (新潮クレスト・ブックス)

ビリー・リンの永遠の一日 (新潮クレスト・ブックス)


訳者あとがきによれば、
2004年感謝祭のテキサススタジアムのハーフタイムショーは、イラク戦争フセインが倒れた直後)でのアメリカ軍の支援と戦争への支持を高めるために、あった。
作者ベン・ファウンテンは、このショーで、イラクから呼び戻されたばかりに見える兵士たちがマーチングバンドらと行進するのを見て、次のように考えたそうだ。
「これは頭にいったいどういう作用をするのだろう? 毎日死ぬか生きるかの状況に浸っていて、それからアメリカに戻り、この実に人工的な状況の真っ只中に放り込まれるなんて。言い換えれば、どうやって気が狂わずにいられるのだろう?」
――こうして、本書『ビリー・リンの永遠の一日』が生まれたのだそうだ。



アル・アンサカール運河での激しい戦闘は、居合わせた保守派のニュースクルーによって撮影され、アメリカ全土に放映される。この戦闘の生き残りであるブラボー分隊の兵士たち八人は、アメリカで英雄視されるようになる。
政府は、彼らを一時帰国させ、各地でパレードなどを行って、戦意高揚に利用する。


ブラボーを率いる軍曹ダイムは24歳。主人公ビリー・リンはたった19歳だということに驚いてしまう。若者――まだほんの少年、と言ってもいい歳ではないか。
そうした若者たちが、イラクで、想像もできないような死線を潜り抜けて、ここにいるのだ。
人々は彼らを囲み、感激して口々に「感謝しています」「誇りに思います」「素晴らしい」「驚くべき」と言う。
でも、そういう人々に、ブラボーたちが、どのような「日常」を送って、今ここに戻ってきたのか、どうしても理解できるわけがないのだ。
賞賛されればされるほど、彼らは戸惑い、故国の善意の人びととの隔たりを感じざるを得ない。
ビリーは、人々に囲まれながら、「アメリカ人は子どもなのだ」と思う。19歳にして一気に老成してしまわざるを得ない戦地であったのだ。
しかし、やっぱり19歳。この国で大人としてデビューする時、そのステージがいきなり戦場だったビリーたちは、ある面、ものすごく老成した大人でありながら、同時に別の面は子どものままだった。
自分の目的にかなうものはとことん利用しようとする狡猾な本国の「大人」のまえで、彼らは無防備な子どもだった。
大人と子ども。いやいや…
アメリカ国内の人々とブラボーたちとのふれあいを見ていると、むしろ、異星人同士の交流のように見えてくる。お互いにお互いの本当の言葉がまったくわかっていない。
語り合えば語り合うほど、笑い合えば笑い合うほど、彼らの頭の中に、藁かおがくずがどんどん押し込まれていくように見えて仕方がない。
原因不明の頭痛を耐えるビリーを見ながら、あんなものを詰め込まれ続けているからだよね、と思う。


一方で、ブラボーたちを囲んで嵐のような賞賛を浴びせる罪なき人々の側に立つと、自分の足元が流されていく砂のような、心もとない気持ちになってきて、焦る。
生死をかけて戦い、ここに立っているこの若者たちをどうしたって讃えないではいられない、と思うのだ。
集団催眠術にかかったみたいになって、大勢の中の一人になって、必死に「あなたがたを誇りに思います!」と叫んでいる自分の姿が見えるようで、怖くなる。


ブラボーたちは、一時帰国なのだ。この「クレイジーなごたまぜ」が終わったら、再び戦地に戻される。
「もしも逃れられたら…」なんて考えもしない。たとえ「もしも」があったとしても、この国では彼らは生活することもままならないという現実も見える。
この国でうまくやれるのは、かつて徴兵猶予をとり、ベトナムをパスしたくせにいまは戦争屋になるような人間たちなのだ。


実は、この残酷な喜劇から安全に下りることのできる抜け道が、ビリーの目の前にぶら下がっている。
揺れるビリーの気持ちを前にして、私は思っている。
たぶん、彼はそこから逃げたりはしないのだろうな、やはり、死ぬだろうと思いながら、前に進むのだろうな、と。
そう思っていることに気がついて、ぞっとする。この思いは、ひとつの形のない武器ではないか。多くのビリーたちを「英雄」という型の中に追いつめるための。