『ブローティガン 東京日記』 リチャード・ブローティガン


ブローティガンは、1976年5月から6月にかけて、一カ月半ほど東京に滞在した。
その日々をほとんど日記のように詩に書いている。
目に映る物を短い時間にざっとラフにスケッチしたような詩。
描かれたのは、おもに人。日本語を話せないブローティガンは、風景を見るように人を眺めていたのではないか。


たとえば、東京から大阪へ向かう高速道路の上から、田んぼの間の道を自転車でいく男を見ている。
やがてその男が「記憶のインクをこすった跡に/変わって」しまうまで。
たとえば、おしっこをする数人のビジネスマンたちのいるトイレで、幽霊のような女性がモップをかけている。
「彼女は本当に幽霊なのだ/でも不意にぼくたちがおしっこをする幽霊に」なってしまったと感じる。
一方、タクシーに乗って「ぼくはこのタクシーの運転手が好きだ」と書いている。
ただ黙って小さな同じ空間の中で、「ぼくも同じように感じているんだ」といえる何かを共有している。
英語でも日本語でも、言葉を交わす必要はなくなる。


日本でアメリカ人に出会ったりもする。同じ言葉を話すのに、彼らは、日本人より遥かに遠い。
たとえば、同じホテルに泊まっている身なりのよい老人は、著者のラフな服装をちらっと見るなり、もう話すことは何もなさそうな顔をする。
アメリカン・バーにいた若いアメリカ人は、彼らのようなたぐいの男と寝たがる日本人の女をひっかけようとしている。
「ここではどんな詩をみつけるのも/むずかしい」と、したためる。


日本で、彼は、寂しがっているように感じる。
東京のあるバーで酒を飲みながら、ある日には「だれか話しかける相手がいたらいいな」と書く。
また、ある日には、片言の日本語と英語とで短い会話をしたあとで、興が乗ってきた日本人たちが、会話を完全な日本語にきりかえてしまった時、「ぼくはまたひとりぼっち」と書く。「人が何について話しているのか/理解できないときはいつも」と。
ブローティガンの本は世界じゅうの沢山の言葉に翻訳されて出版されている。「それなのに」「ぼくは雨のふる東京で今夜/ひとりで寝るんだ」


ねえ、と尋ねたくなる。
日本はいかがでしたか。
日本人はシャイで、とても不器用だったのかもしれません。
1976年ごろ。
日本で外国人に出会うことがそもそも私たちには珍しかった。どうしてよいかわからなかった。ガイジンという言葉が差別的な言葉だということさえぴんと来ないでいた。
そういうことが、もしかしたらあなたを孤立させてしまっただろうか。失望させてしまっただろうか。


でも、きっと、それだけではなかったよね。
日本人の名前が、いくつか詩のなかに現れた。その名前たちは、彼と待ち合わせをし、彼の傍らを歩き、ともに電車に乗った。
献辞は「ぼくの日本の妹」と呼ぶ人に。


最後の詩は、空の上。彼はアメリカへ帰るところだ。
「ぼくは日本の友人たちのために
 七月一日の朝日にあいさつする
 かれらが愉快な日を迎えるように
 太陽は日本へと
    むかっている途中だ」
ブローティガンから、さよならのプレゼントが、ほら、いま光になって、日付変更線を越え、日本へ届く。