『オはオオタカのオ』 ヘレン・マクドナルド

オはオオタカのオ

オはオオタカのオ


>メイベルはうれしそうにしゅしゅういい、興奮を隠しきれず尾羽を振っている。腹部の羽毛はふわふわに膨らんでしっかりした爪にかかり、眼は日差しを浴びて銀色に輝いている。もし彼女が喋れるとしたら小声で歌を口ずさんでいるだろう。


著者ヘレンは突然、最愛の父をなくす。彼女は喪失感から立ち直れない。
傷心の彼女は、オオタカの幼鳥を迎える。メイベルと名付け、調教を始める。
この本、オオタカの飼育・調教の記録であると同時に(それ以上に)彼女の再生の記録になっているのだけれど、ちょっと不思議な読み心地だった。
癒しという言葉から連想するのは、穏やかなもの、温かいものだ。やさしい言葉であり、静かな時間だ。
けれども、著者は、最初からそうしたものを遠ざける。
幼い頃から猛禽を愛する彼女でもあったけれど、その猛禽のなかでも大型で、獰猛、調教が難しい、というオオタカに惹かれ、求める。
オオタカと彼女がチームになっていく日々は、決して生易しいものではない。
彼女自身、オオタカの存在感に呑まれ、自身がオオタカになってしまったように感じる時もあった。


面白いな、と思ったのは、
彼女のオオタカ調教の記録と並べて、半世紀も前の作家T・H・ホワイトの著書『オオタカ』を読みながら、ホワイトの生涯と彼のオオタカ調教について、著者のそれと同時進行的に考察していくところだ。
ホワイトによるオオタカの調教記録には、彼女は虐待、独裁者、という言葉をあてる。彼女からみたら、ホワイトのやりかたは一見、反面教師的なものに思える。
しかし、読めば読むほどに、彼女もホワイトもよく似ているような気がしてくる。
これほどまでにホワイトを忌み嫌いながらどうしようもなく惹かれる、これほどまでに詳細に追いかけずにいられないのも、そのせいではないか。


ホワイトも著者も、オオタカに出会った時は、人を避けずにはいられないアウトローだった。
ホワイトは、憎み合う父と母の間で、複雑な愛憎を浴びて、成長した。父が彼に接したように、彼は鷹に接していたのだ。ホワイトは鷹を憎みつつ愛していた。
そして、オオタカ・メイベルの眼で世界を視ようとする著者ヘレンもまた、父が彼女に対したように、メイベルに対しているのだ。
ヘレンもホワイトも、自らが父になり、同時に子(幼い鷹)になり、育ち、育てられていた。
鷹を調教しながら、父と子の関係を浚い直しているように見える。


>私はあの鷹といっしょに飛んで、父を探しに行きたかった。
けれども、鷹は父を探すためには飛ばない。
鷹は獲物を探すために飛び、捕らえ、噛み砕く。
予測を裏切り、時に制御できなくなる鷹を追いながら、ヘレンもまた、人である事と鷹である事の間で狂ったように行きつ戻りつしているように見える。痛ましいほどに。
思えば、人でありながら、共に暮らす鷹の目でものを見、考えようとすることは、種を越えて、生き物同士の大きな共感に繋がるのではないか。それは、人だからできること、人である事の証ではないだろうか。
>私はメイベルと暮らしてみて、たとえ想像の中であれ、人間でないとはどういうことかをひとたび知ることができれば、人はより人間らしくなれるのだということを学んだ。