『ビリー・ザ・キッド全仕事』 マイケル・オンダーチェ

バラバラに書かれた詩と詩の間を散文で繋ぐようにして書かれた「小説」なのだ。
語り手は、「おれ」であったり、「わたし」であったり。各「おれ」が同一人物という保証はない。
舞台も時代も、前後ばらばら。さっき死んだ男が、次の章ではぴんぴんしていたりするのだ。
慣れるまで戸惑う。いやいや、最後まで戸惑っていたけれど、この惑いは楽しかった。
霧の中をさまよいながら、ビリー・ザ・キッドという伝説の男を伝説とはややずれた方向から、しかもぼんやりと眺めているような感じで、そのぼんやりさ加減が心地よい。


作者あとがきに、こんな風に書かれている。

>二年間にわたって詩、散文、架空インタビュー、歌、断片を書いた末に得たと分かったのは、コラージュのために集めた素材を入れたカバンとでもいうような原稿だった。
そう、コラージュ。ある人物を浮かび上がらせるためには(もちろんどのように浮かび上がらせたいかにもよるけれど)きっちり書かれた小説よりも、寄せ集め・切り張りのコラージュのほうが、ふさわしい場合もあるのだ、と思った。


ビリー・ザ・キッド
殺すか殺されるかの開拓時代の無法者。
あるときはやんちゃないたずら坊主、憎めないトリックスターのよう。
彼の仲間たちには良き友で、周辺の人々にとってはガキ大将みたいな存在か。
女たちには、その笑顔は魅力的にうつったことだろう。つぶれた鼻や、反っ歯さえも魅力的に。


しかし、今、読み終えて、もっとも鮮やかによみがえってくるのは、友人ジョン・チザムの居間だ。チザム家のリビングに集った友人たちの群像。
後に保安官としてビリーにとどめを刺すことになるパットと、ビリー本人がそこにいる。ことさらに会話を楽しむそぶり無く、ことさらに気の合ったそぶりを見せるでも無く、ただ寛いでそこにともにいる。ほかの大勢とともに。その居間の光景が鮮やかな映像となり、心に残る。


ビリー・ザ・キッド
最初から最後まで、私が見たビリーは遠景であった。後ろ姿であったかもしれない。
ビリー自身が、容易に捕まえさせてくれなかった。作中の(架空の)インタビューで、インタビュアーに「ミスター・ボニー」以上の呼び方を許さなかったビリーに相応しい。
それと、もう一つ。
うまく言えないのだけれど、生きている彼が、死の世界の住人(生きているけれど、すでに「死」に捕まっている、というか)として描かれているからではないか。
最初から最後まで、一刹那一刹那が、死につつある時間のきらめく欠片なのだ、と感じる。
21歳の短い生涯だった・・・ああ、そんなに若かったのか、ほとんど少年じゃないか、と驚いている。