『嵐電 RANDEN』 うらたじゅん

嵐電―うらたじゅん作品集

嵐電―うらたじゅん作品集


11作の短編漫画を収録した作品集です。


昭和三十年代、四十年代。
えんとつが林立する大阪の工業地帯の、ヘドロの川と噴煙の霧の町。
桜の花びら舞う京都太奏映画村。
東京神田の路地裏の四畳半。
与那国島、雨ふる冬のサトウキビ畑。
・・・・・・
あ、懐かしい、と感じる。
懐かしい、という気持ちは不思議だ。
どの景色も知らない、共感できるような体験もない、人もいないのに。
空気の匂いだろうか。時代の匂いだろうか。
登場人物たちの思いの断片が、ふと思い出の中の自分のどこかと掠ったように感じるからだろうか。
ふわーっととらえどころがないように見えるので、ふわーっと読んでいると、どきっとする描写や言葉に出会って、はっとする。


みんな遠くを見ている。遠いところにある何かを探しているような気がする。
四歳の女の子から若者たちまで、まだ見たことのない世界に、なにかを見つけようとしている。
老人たちは、自分の過去の記憶の中に、置き去りにしたものや見失ったものを、探している。
それから、亡くなった(戦争で不本意に命を奪われた)人のユウレイたちは、断ち切られた人生の続きを探している。
探し物がみつからない人々が、同じように探し物をする人びとに共鳴して、そこに小さな一期一会が生まれる。
その瞬間が、切なくて、愛おしいと感じます。


だけど、ほんとはそれ、そんなに甘ったるいものじゃない。ぞくっとするような凄みがある。
ここにいる人々は、地獄と現世の狭間みたいなところに探し物を求め、さまよっているのだから。
それなのに、それだから、かな、
人は染み入るようなやさしい表情をする。


高度成長期のまっただなか。上へ上へと駆け上がろうとする人びとも、そうはさせぬと竿さす人々も、みんなひたすら駆け足の時代だったのではないか、と思う。
駆け足の足音が入り乱れる町で、足音に呑まれることなく(吞まれようもなくて)佇んで留まる人たちがいる。
夜の運動場から「応答せよ、応答せよ」と、見えない信号を送る娘。
「親父の盃に毒を盛れ」とつぶやく青年。
戦争がまだまだリアルにのしかかっているのをどうしようもできないでいる人たちの思いや、言えなかった言葉、いつまでも待っている人のことなどが、ユウレイと溶け合って町を漂っているみたいだ。
リアルなのは生身の人間よりもユウレイのほうかも。


巻末の石津クミンさんの解説『深呼吸してじゅんは』もよかった。
この作品集が、作者の来歴と深く結びついているらしいことを知りました。
深呼吸の必要』という映画の中から引かれた「(深呼吸しても)早くはならない。でも楽しくなるよ」を読みながら、
この本の登場人物たちも、深呼吸するためにこの本の中に現れたのかもしれないと、ふと思う。
大きく息を吸って吐いて、吐いた息がやさしいユウレイになって、空に舞い上がっていくような気がします。