『クマのプーさんと魔法の森』 クリストファー・ミルン

クマのプーさんと魔法の森

クマのプーさんと魔法の森


これは、『クマのプーさん』の作者A・A・ミルンの一人息子クリストファー・ミルンによって書かれた自身の幼い頃の物語。
クマのプーさんが有名になれば、物語の登場人物であるクリストファー・ロビンも有名になっていく。
けれども、実際に生きているクリストファーは『クマのプーさん』とは関係ないところで暮らしていた。
彼の身の周りには、多くの子どもたちと同じように刺激的な出来事があふれ、父の本もそうしたもののひとつに過ぎなかったのだ。
大人になったクリストファー・ミルンは、クリストファー・ロビン宛ての手紙をたくさん受け取ったが、一切返事を書かなかった。書きようがなかった。
そこに、「クリストファー・ロビン」はいなかったから。

>私の父はクリエイティヴな作家であった。そこで、彼の心が欲したように、小さな息子と遊べなかったという、まさにそのことから、彼は他の方向に満足を見出したのである。彼は、自分自身について書いた。
…これが『クマのプーさん』だった。
クリストファー・ミルンと、百町森クリストファー・ロビンは、全く別のいきものなのだ、ということは、様々な方向から、繰り返し語られる。
鬱陶しくまとわりついてくるものを払いのけるように。


描かれるのは、ある作家の家庭。その作家の一人息子の小さくて平和な世界。
美しいコテージは田園にあり、500エーカーの庭には森も小川もあった。
ナニーのいるイギリスの子ども部屋があった。コックのいる台所があった。庭師のいる庭、庭仕事が好きな母親がいた。
子どもの感じたままの世界は生き生きとページの上に再現され、田園風景の美しさとともに、気もちよく心に沁み渡る。
私は、この本の自然を描きだす文章が好きだ。ことに「天候」の章の『風』について書かれた部分は、擬人化された美しい詩のよう。
他の章とがらりと印象が違う『イーヨーの陰気な場所』の章。見過ごそうと思えば見すごせる、家庭内のわずかな気配を描きだす文章は、さらりと書かれているけれど、微妙でちょっとホラーめいた雰囲気があり、凄みを感じる。


「おなじ家に、二人の作家はいらないだろう」とクリストファーは言う。
でも、あえて言ってみる。クリストファーは作家をめざしてもよかったのではないか。
もし、父が成功した作家でなかったら・・・
もし、『プー』の中に出てくる少年の名が「クリストファー・ロビン」でなかったら・・・
そうしたら、クリストファー・ミルンの職業の選択肢のなかに「作家」はあっただろうか。


長じてのことは、この本には書かれないが、「エピローグ」でほんの少しだけ触れる。
ある子どもへの妖精の贈り物が「この子は父親の頭脳と母親の手をもつだろう」「この子の名前は、世界じゅうで有名になるだろう」というものであったとしたら、
「それは祝福にもきこえるが、じっさいには呪いでもあるのである」と。