『へろへろ 〜雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々〜』 鹿子裕文

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々

へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々


さて、『宅老所よりあい』。
この本の最後に、特別養護老人ホーム「よりあいの森」は開設される。
その開設を祝う会で、有形無形の支援を続けてきた来賓たちの挨拶が始まる。
「(『よりあい』の)バザーなんかに伺いますと、絶対ただでは帰さんぞという迫力があると申しましょうか、何と申しましょうか…」
「わたしなんぞ『よりあい』からいくらムシりとられたかわからないくらい…」
これではまるで「よりあい被害者の会」だ、と著者は言う。
読みながら、私はくすくす笑う。
この本の最初のほう、著者が「よりあい」に関わるようになった頃のことを、こんな風に書いているのだから。
「…何も知らずにのこのこやってきた「大ばか者」が僕だった。僕は本当になにも知らなかった。知っていたら近寄らなかった」
そう、著者も「よりあい」の「被害者」でした。
それが、いまやれっきとした世話人として、また「よりあい」の機関誌『ヨレヨレ』の発行者として、被害者を作る側にまわっているではないか。
被害者――つまり、人もうらやむ果報者たち、という意味だと思うけれど。


始まりは、一人の困って居るお年寄りがいたことだ。
そして、必要に迫られて動きだした人が一人、いたことだ。
そこに徐々に人が集まってきた。
それが宅老所「よりあい」となり、特別養護老人ホーム「よりあいの森」へと繋がっていく。
「制度があるから」でもなく「施設が作りたいから」でもなかった。
…それはちょっと不思議な集まりだった。


この本、軽口の連続で何度も吹き出した。テンションの高い文章には数歩後ろに下がりたくなった。
でも、油断してはいけない。悪ふざけかと思う文章には、あちらにもこちらにも爆弾、いや、宝が埋ずまっているのだから。


「よりあい」の始まりにあったのは、怒りだった、と著者はいう。
老人の「わたしがそんなに邪魔ですか」という声なき声。
「ぼけた人を邪魔にする社会は、遅かれ早かれ、ぼけない人も邪魔にし始める社会だ」と著者は書く。
「思えば「自己責任」という言葉が「老い」という不可抗力の分野にまで及ぶようになって以降、人は怯えるようにしてアンチエイジングとぼけの予防に走り出した。のんびり自然に老いて、ゆっくりあの世へ行く。それを贅沢と呼ぶ時代が来てしまったのかもしれない」
そして、
「人は施設に入った途端、まるで社会から姿を消したように「見えない存在」になってしまう」
「よりあい」の意義はここにある。
人が老いていくという事実を可視化する。ぼけていくという事実から目をそむけない。
安心してぼけていいよ、と言いたい、言われたいじゃないか。
「よりあい」は、内と外の隔てを外し、町の人々も巻き込んでどこまでいくのだろう。


この団体には、介護する側にもされる側にも、とても緩やかな「遊び」を感じる。恐ろしく忙しい&金もないというのに。それはほんとに笑いごとじゃないのに。
これはいったい何なのだろう。
大きなエネルギーが押し寄せてくる…と思ったら、「ケ・セラ・セラ〜なるようになるわ〜」と気の抜けた声が流れてきたよ。