『大人に贈る子どもの文学』 猪熊葉子

大人に贈る子どもの文学

大人に贈る子どもの文学


長年子どもの本と関わってきた著者は、大人にとっても児童文学は価値あるものだという。
児童書のどこに、大人にとっての価値があるというのだろう。
その価値とはいったいどのようなものなのだろうか。


まず、ざっと俯瞰して、

子どもの文学の中には、子どもが困難に直面しても、めげずに乗り越えていき、幸せなゴールに到達する物語が沢山ある。それらは大人の諦念や常識に揺さぶりをかけて、人間の幸せの原型ともいえる物を発見させてくれる力をもっているのではないか。
という。


この本には、優れた児童文学の作家たちによる児童文学についての論文からの引用も多くある。
たとえば、
トールキン『妖精物語について』のもとになった論文から。

妖精物語の真の姿、その最高の機能は「幸せな大詰め」をもっている、ということである。「妖精物語の幸せな大詰め」は、「最終的な敗北が蔓延することを否定し」「この世界を取り囲む壁の向こうに存在するあの「喜び」。悲しみと同様に鋭く人をつきさす「喜び」を感じさせるもの」である


ジョーン・エイキン『子どもの本の書き方』から。

物語はひまつぶしのために使われる空想の断片であってはなりません。人間誕生のはじめから、物語は祭司、詩人(預言者)、医者たちによって、人をいやし、教える魔法の道具として、さらには解決不能な問題や、耐えがたい現実にたえず直面しなくてはならないという事実と折り合いをつけることを助ける方法として用いられてきました


また、C・S・ルイス『子どもの本の書き方三つ』から。

私は、子どもにしか喜ばれない児童文学は、児童文学としてもよくないものだということを、一つの規範としてあげたいくらいです。いいものは長つづきします。ワルツをおどっている時だけしか好きになれないワルツは、よくないワルツです


まだまだあるけれど、七十年も前から、錚々たる児童文学者たちによって、あらゆる方向から「児童書は子どもだけではなく、大人にとっても非常に価値のあるもの」である、と繰り返し書かれていたのだ。
それなのに、なぜ、いまだに、こういう本が書かれるほどに、大人には児童文学が受け入れられないのか。


ひとつには、子どもの文学は卒業すべき一過性の文学と考える根強い偏見だろうか。
だから、いい大人が子ども向けの本を読むのは恥ずかしいことだと考える。
もうひとつは、単純に、この分野に興味がないのだろう。
私も図書館や書店で、その前を素通りするジャンルの棚があるが、ある人にとっては、児童書の棚がそれなのだろう。


本は、自分の居場所をすすんで伝えてはくれないから、わたしは、地図がほしくなる。
そのときどきに更新される良質な地図が。
この本は、宝のありかを示した地図だ。


(正直、現代のモノにも、もうちょっとページを割いて触れてほしかったな、とも思ったのですが…)