『ペーパーボーイ』  ヴィンス・ヴォーター

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)

ペーパーボーイ (STAMP BOOKS)


1959年。舞台は、テネシー州の田舎町。
この時代のアメリカの町は、子どものころの私の憧れだった。
大好きで、何度も読んだクリアリーやマックロスキーの本は、このころの物語。
少し大きくなって読んだブラッドベリ『たんぽぽのお酒』や、もっと大きくなって読んだマキャモン『少年時代』、そして、マッカラーズ『結婚式のメンバー』などから、無条件に感じてしまう郷愁は、アメリカにあこがれながら本を読んでいた自分の子ども時代への懐かしさだ。


それは、この本『ペーパーボーイ』の表紙の挿画を見て、胸に湧き上がってくる思いと一緒。
けれども、この時代は、今よりもずっと激しい人種差別の時代でもあるのだ。
バスの座席、動物園の入場制限、黒人にはいっぱいの制限があった。
犯罪捜査さえも差別があった。黒人同士の諍いには、白人の警察官は関与したがらなかったという。
『ペーパーボーイ』の主人公「ぼく」は、母親以上に大切な存在であるメイドのマームを思って心痛めるが、これほどに激しい人種差別がなかったなら、「ぼく」はマームと出会うことはなかったはずだ。


夏の蒸し暑さをやわらげる夕方の風がカーテンを少し揺らす。ポーチのブランコは、静まったまま。
この美しい平和な風景は、白人たちの(黒人に対する)差別によっても、支えられていたのだということを、まずは覚えておかなければ。


11歳の「ぼく」が親友のかわりに新聞配達をした夏、1か月間の物語だ。
「ぼく」は吃音者である。
思うように言葉が出ない苦しみ、伝えたいことを伝えられない苦しみが痛いほどに伝わってくる。
なかでも、優しい大人たちの無知からくる思いやりが、どんなに残酷に少年を傷つけるか。
「言葉」について、彼はきっと人よりもずっと深く考える。そして、自分が口に出す言葉を人よりもずっと深く吟味する。
「言葉がまったくしゃべれないのとしゃべれるけど意味がわかっていないのとではいったいどっちが困ったことなのだろう」


「ぼく」が夏の間に出会った忘れられない人々の中で、ひときわ印象的なのが、スピロさん。
スピロさんの言葉は、謎かけのようで、すぐに意味がわからない場合が多い。
たとえば、
「フィクションかノンフィクションか知りたいのならわたしが住まうこの世界において両者にちがいはない(中略)
人はフィクションの中により多くの真実を見いだすものなのだ」


夏に出会った多くの濃い出来事のひとつ、重い「秘密」については、誰に相談しても、今の今、答えられる人はいないだろう。
そのことを「ぼく」は彼なりの方法で解決したのではないだろうか。「答え」であるかどうかは置いたまま。
それもスピロさんの言葉に繋がるんじゃないだろうか。
真実はきっと、フィクションとかノンフィクションとかとは別のところにある…


たくさんの解決しない問題を抱えながら、むしろ抱えていることに誇らしく胸を張りながら、少年は成長する。
その姿を見ていると、嫌なことやもやもやすることはたくさんあるけれど、明日はきっと良い日だ、と信じたくなる。
最後のほうで、「ぼく」がおとうさんとキャッチボールをする場面がある。
「ぼく」は、ボールとともに、四つの言葉をおとうさんの胸に手渡す。
その場面が、何よりもわたしには心に残った。