『双眼鏡からの眺め』 イーディス・パールマン

双眼鏡からの眺め

双眼鏡からの眺め


あの人もこの人も、程度の差はあるにしても、自分とそんなに違わない暮らしをしているような気がする。
でも、その暮らしをつい双眼鏡で覗いてしまったら、細部にいたるまでいろいろな物が見えてびっくりしてしまうかもしれない。
一番びっくりするのは、見えないところの存在だ。壁などで仕切られて視界を遮られたところと、くっきりと見えすぎるところの差。
見えないところには、本人さえも気がつかなかったものが隠れているのだろうか。それとも故意に隠しているのか。あるいは突然その壁の影に何かが置かれたのか。
なにもかもがぼんやりとしているうちは気にもならなかったのに、なまじっか見えすぎる場所が現れたために、かえって見えない場所の存在感がのしかかる。


たとえば、『上り坂』の家族。ちょっとした事件を体験する家族の様子は、それの前とあとでは、見たところ何の変わりもないはずだ。
けれども、本人たちは気がついてしまった・・・違う風景に。
(さらに最後の一行で、もういっぺん、色が鮮やかに変わる。凍っていた物が、ふいに溶けたような感じで、見ている私の目にくっきりと残る。)


繰り返し出てくるテーマ(?)がある。
ユダヤ人、障害を持った子ども、老い
それから、ジェンダーマイノリティたちの小さな痛みが、つかまえどころがないけれど、気配となって、そこここに浮遊している感じ。


自分の民族が迫害を受けたことは、個人が直接経験をしたわけではなくても、ひとりひとりにとって、消えない傷になっていること、触ればいつでも血を流すのだ、ということに、圧倒されてしまう。
『身の上話』のラストは、こたえた。「彼女」に、ぱっと背を向けられたような気がして、うろたえる。


作品のなかにあらわれる、いろいろな障害を持った子どもたちは、愛おしい存在だ。
「・・・囚われの身のテスが束縛されていないように見えて・・・」『テス』
「ラースは人を愛さない。結婚しない。驚くことすらしない。認識し、分類するだけ。さらなるラテン語の名前を学び、それをすべて暗記する。それは一種の幸せの形だ」『ジュニアスの橋で』
これらの目線は、あくまでも第三者の眼だ。子どもの存在のすべてに責任を負う保護者ではない(だから言える言葉かもしれない、ということを含めて)それを忘れてはいけない、と思う。
思うが、子どもを見守る人たちの言葉の賢さに打たれる。その子の見えない光に打たれる。


どきっとするものもあったし、なかには少しばかり気味が悪いものもある、時々、茫然としたりも。34の作品はほんとうにさまざまだ。
でも、どの作品も、主人公たちは、それぞれの人生をなんとかやっていこうとしている、誰の手にもつかまろうとせずに。
その姿はときどきとてもカッコ悪くて、素敵だと思う。わたしの愛おしい隣人たちだ。


『上り線』『規則』『双眼鏡での眺め』『ジュニアスの橋で』『自恃』が印象に残る。