『海辺の家』 メイ・サートン

海辺の家

海辺の家


先に読んだ『独り居の日記』は、メイ・サートン56歳の時の日記だった。ニューハンプシャー州ネルソンでの一年間。
『独り居の日記』で、メイは「私は一人でいるように"できている"らしいし、幸福の希望は叶えられそうもない」と語っていた。
それと同時に、幸福でないことは即不幸ではない、ということをしみじみと感じさせてくれた。
彼女は孤独であったが、その孤独は豊かだった。


これは、『独り居の日記』に続くメイン州ヨークの海辺の家での一年半の日々の記録である。
女であること、孤独であること、愛について、宗教について、作家であること、書くこと、庭づくりや動物たちのことについて、そして、作家や詩人たちについて。


しかし、『独り居の日記』のネルソンでの日々が、ずっと静かな雨の音とともにあるような落ち着きを感じていたのに比べて、こちらでは・・・なんだか賑やかだ。
移り変わる自然の中で、ほとんどの場合、メイは安定した幸福を感じている。
愛する人老いに対峙したり、招かれざる客に悩まされたりしながらも、ドラマチックな季節の移り変わりや、折々の庭の変化に心動かされる、それは美しい日々。


しかし、詩人であり作家である彼女は、まるで「幸福」の見返りであるかのように、仕事ができなくなってしまう。
彼女の美しい日々・彼女の幸福は、読んでいるわたしには、むしろ息苦しくすら感じる。
この満ち満ちた日々を喜びつつ、同時に、彼女の芸術家としての魂が苦しんでいるのを感じる。
なんと皮肉で残酷なのだろう。
『独り居の日記』で引用されていたフランソワ・モーリアックの言葉を思い出す。
「幸福の経験はもっとも危険なものである。なぜなら、存在しうる幸福というものはすべて、われわれの渇きを大きくさせ、愛の声は空虚を、孤独を響き渡らせるからである」


けれども、この本の中で、メイ・サートンは、こうも言うのだ。
「孤独は長くつづいた愛のように、時とともに深まり、たとえ、私の創造する力が衰えたときでも、私を裏切ることはないだろう。なぜなら、孤独に向かって生きていくということは、 終局に向かって生きていく一つの道なのだから」
きっと、目に見えるところで大きく揺らいでいるように見えても、地の下には、しっかりとした根があることを思い出すなら、動じることはないのだ。
まだまだ人生の途上の日々。
孤独と喜びが、どこかでどのようにか調和して、一層の豊かさとなっていくのではないか。
たくさんの示唆に富んだ言葉を大切にしながら、この先の本も(その前の本も)ゆっくり味わっていきたい。