『ねこまたのおばばと物の怪たち』 香月日輪

ねこまたのおばばと物の怪たち (角川文庫)

ねこまたのおばばと物の怪たち (角川文庫)


ねこまたのおばばをはじめとした物の怪たちが魅力的だ。
おっとりと余裕があって、人情篤い。剽軽な身のこなしも、会話の掛け合いも楽しい。不思議な容貌さえも愛くるしく(?)感じる。
こんな物の怪たちなら、私も会いたい。
それに比べて、主人公舞子のまわりの人間たち(いじめっこをはじめクラスメートたち、教師、そして、家族)はどうしたことだろう。
なんだか薄っぺらくて影が薄い、と感じる。
・・・無理もないのだ。
何百年も生きてきた物の怪たちの余裕に比べたら、わずか数十年の寿命を生きる人間たちの時間はなんとせせこましいことか。
時間に忙殺されて、それぞれがそれぞれらしく生きられない。人と人とが繋がり合うことさえもできず、孤立してしまっている。
それにしても、人ならぬ物の怪のほうに、人よりずっと人間味を感じる、というのは、なんとも皮肉なこと。


核家族で、親戚・知人との結びつきもほとんどない(らしい)舞子の家。
こうした状態で、家族の中で子どもが疎外感を感じたら、子どもはどこに居場所をみつければいいのだろうか。
舞子が見つけたのは、異世界の入り口。
そこで、無条件に自分を迎え入れてくれる場所と人(?)とに出会う。
自分のなかに閉じ込めるしかなかったいろいろな思いを開放し、どんどん変わっていく。
素敵だけれど、少し胸が痛くなる。
本当は、こういう場を、異世界ではなくて、この世にみつけられればいいのに。


舞子は居場所をみつけた。それでこのおはなしはおしまい、でもよかったのだと思う。
けれども、ねこまたのおばばの住む異世界は、舞子をもう一段、昇らせる。
「完全な人間なんて、おりゃせんよ。人間にはそれぞれの物語があるんら。舞子には舞子の、おっ母ちゃんにはおっ母ちゃんのな。自分の物語が大事なのは、みんな、いっしょなんよ」
親も子どもと同じラインに並び立ち、自分の物語を語りあえる、対等な人間同士なのだ、との気づきが、きっと舞子の新しい、ほんとうの居場所になるのではないか。