『トランペット』 ジャッキー・ケイ

トランペット

トランペット


有名なジャズ・ミュージシャン、ジョス・ムーディが死んだ。
彼の死は、イギリスじゅうにセンセーションを巻き起こした。
でも、それは、ミュージシャンの死を惜しむため、というよりは、彼が生前隠しとおした秘密が、死と同時に露わになったためだった。


家族、友人、バンドメンバー、葬儀屋、死亡診断書を書いた医師、そして、暴露本を企画するジャーナリストなど、
彼らの思い(多くは戸惑い。それから・・・)が、章ごと、オムニバス形式の物語のように連なる。
読んでいると、まず不快になる。
そっとしておいてやればいいじゃないか!と。
亡くなった人が、大切に守ってきた秘密。だれかに迷惑をかけることでも無い秘密。それをなぜ、今になってほじくり返さなければならない?
まるで、彼の人生という家に土足で踏み込み、勝手に家探ししているようではないか。


真実とはなんだろう。
ジョスという人間をあちこち、違う角度から眺めたら、全部ちがう姿が見えるはずだ。どの面もみな、真実のジョスなのだ。
だとしたら、真実、と一言で言っても、数えきれないほどの真実があるはずだ。見る人にとって、どこからの景色を一番みたいか、ということなのかもしれない。
そして、どの面をジョスの「真実」と呼ぶかは、ジョスその人を表しているのではなくて、見る側の、物の見方や価値観を表しているのかもしれない。


次々に現れる人々の内、やがて、ジョスの息子(養子)コールマンから、目を離せなくなる。
最初、彼の激しい怒りしか見えなかった。その怒りは幼稚に思えた。
・・・でも。


肌の色、セクシュアリティ、己の出自。
家族。
そして、死ぬということの意味。
わかったこともあるし、わからないままのこともあった。
わかったことは、どれも大切なことで、わからないことは、そのままそっとわからないままにしておきたいことだった。
偏見・差別が、形を変えてひっきりなしに降りそそぐが、それらは、この家族には、あまりに異質に感じる。
何の意味も持たない、と感じる。


ジョス・ムーディがどのように自分の死を受け入れたか、そして、息子がどのように父の死を受け入れたか、それは大きくて美しい物語だ。
背景には、ジョスの妻ミリーの変わらぬ愛情と、あまりに深い悲しみがある。
簡単に癒すことのできない悲しみ、癒されることなど本当は望んではいない悲しみ。
コールマンの動に対して、ミリーの悲しみは静。
けれども読み終えた今、私のイメージでは、コールマンはどっしりとした静のイメージに変わる。ミリーの悲しみは揺蕩うような動に変わる。
いつも寄り添っていた人の代わりに、彼女に寄り添うのが、悲しみなら、
そして、息子の旅の物語に寄り添うのが、彼女の悲しみなら、
この悲しみは、いっそ、物語に吹く爽やかな風、と思えてくるのだ。